西瓜

じりじりとアスファルトが焼けている中で、頭からびしょ濡れになっている乱馬は余計に不快感を感じていた。

男性の時とは違い袖や裾はぶかぶかで弛むし、この張り付くような暑さで濡れた服でさえも温められて生ぬるく感じる。

 

「くっそー!九能のやろー・・・ほんっとにしつけえな」

 

乱馬は濡れた上着を脱いで絞る。

おさげの女としての自分に襲い掛かってくる九能と派手にやり合ったので、上着は少し砂利を含んでいた。

 

「仕方ねえな、とりあえず洗うか」

 

乱馬は絞った上着を持って学生鞄を背負うと、公園へと走る。

公園の水飲み場で上着を洗いついでに顔も洗って少しすっきりとした。

 

そのまま公園を出て行こうとした時。

ふと木陰のベンチに見慣れた制服の後ろ姿があるのを見つけた。

 

・・・・・・あかね?

 

こっそりと近寄って行くと、深い群青のように見える長い髪を黄色のリボンで束ねたその後ろ姿は、やはりあかねで間違いなさそうだ。

 

けれど様子がおかしい。ベンチに寄りかかって脱力しているように見える。

そしてそのほんの数メートル先で、三人組の男性があかねの顔をのぞき込んだり様子を伺ったりしていた。

 

その挙動から彼らがあかねに対して何かしら下心があるであろう事は察しがついた。

 

「あ、あの・・・きみ」

「なーんだよ?呼び出されたからせっかく急いで来たのに寝てんのかよ?」

 

三人の中の一人があかねに向かって、話しかけようとした瞬間に乱馬は大げさな言い方で割って入り、ベンチで居眠りしているあかねの隣りに腰を下ろした。

 

「で?あんたら何?これおれの連れなんだけど」

「え、おれ?や・・・あの・・・」

 

小柄な可愛らしい女の子である筈なのに、その睨みは殺気を感じる程の凄みがある。

 

 

「なんでもないでーす。失礼しましたー」

 

 

そそくさと立ち去る三人を忌々しそうに見て、けっと息を吐く。

 

「こーんな色気のねえ女の居眠りの何がそんなに・・・」

 

間抜けな寝顔でも見てやろうと俯いたまま寝息をたてるあかねを覗き込んだつもりだった。

 

けれどそこにあったのは間抜けな寝顔ではなく、柔らかく無防備な表情だった。

読書している途中で眠くなってしまったのか、白く細い指先は文庫本を膝の上で握っている。

 

瞬間、心の奥で急に何かが柔らかく締め付けられるような気がした。

 

睫毛、長いんだな。

肌、白いんだな。

唇の色、綺麗だな。

 

生ぬるい夏の風がさらさらとあかねの長い髪を撫でるように通り抜けて、ほんのり甘さが香った。

 

このままもう少し、眺めていたい。

 

 

そんな風に乱馬が思った瞬間だった、ふと骨ばった何かが肩に置かれる。

 

「うぎゃあああああああ!!」

 

振り返ると穏やかな笑顔の東風が、骸骨標本のベティちゃんと一緒に手をあげている。

 

「・・・ん?あれ?乱馬・・・せっ先生!」

 

乱馬の叫びで目が覚めたらしいあかねは、混乱した表情を見せていたが東風の姿を見て急に動揺する。

 

「やあ、乱馬くん、あかねちゃん、こんな所でデートかい?」

「・・・えっ!?」

「ちっ!違います!!私がこんな男女とデートなんかするわけ・・・!」

 

あかねの必死の否定を見て、一瞬でも「デート」という言葉に気持ちが上ずった事を乱馬は後悔した。

 

「おれだっておめえみてえな色気も素っ気もない女なんかとデートする気なんかねえよ!!」

「うるっさいわね!ならさっさと消えたらどう!?」

 

「あははは。ほんとうに仲が良いんだねえ、二人とも」

 

「・・・どこをどう見たらそう見えるんだ。てか東風先生こそこんなとこで何やってんだ?」

「ぼくはね、宇田さんちの自宅治療の帰りなんだ。毎週木曜日は宇田さんの家に自宅治療に行くんだよ」

 

「へー、じゃあ木曜日はいつもここ通ってんだ」

 

意味深な目をしてあかねを見ると、気まずそうに目を逸らされた。

 

 

「あら、あかねちゃん、乱馬くん、東風先生も」

 

振り返ると風呂敷包みを抱えたかすみが、立っている。

 

「おねえちゃん・・・」

「ふわっ!!かすみさ・・・ん!あははは、ベティちゃん、かすみさんだあ♪」

 

くるくるとベティちゃんとダンスを踊り出す東風の姿を見ないように俯くあかね。

 

「相変わらず面白いわねえ、東風先生」

「そうかな?多分お姉ちゃんが居るからだと思うけど・・・」

 

「ん?そうなの?」

「・・・・・・」

 

口をつぐんでしまったあかねに、勝手に焦って代わりに何か話題はないかと探す。

 

「あ、かすみさんこそどうしたんですか?」

 

「ああ、ちょうど良かった。東風先生からお借りした本を返すお礼で、おはぎも作ってきたの。みんなで一緒に食べましょうか?」

 

「ええ!?かっかすみさんがぼくの為においはぎを!?」

「先生、おいはぎじゃねえよ!おはぎだよ!」

 

「じゃあ東風先生の所にみんなでお邪魔していいですか?」

「も!ももももちろんいいよね、ベティちゃん♪」

 

「じゃあ行きましょうか」

「おねえちゃん、あたしね、乱馬と急いでやらないといけない宿題あるの!」

「え?そんな宿題なんて出てたっけ?」

「あったでしょ!もう!すぐ忘れちゃうんだから!じゃあお姉ちゃん私たち先に帰ってるから!東風先生さようなら」

 

あかねは二人の方を全く見ずにそう言うと、乱馬の腕を無理やり引っ張って公園から立ち去った。

 

 

「・・・おはぎおれも食いたかったなー」

 

呟いた瞬間に、乱馬の腕を無理やり引いていたあかねの腕がぱっと離れた。

支えを失った身体はそのままべしゃりと地面に叩きつけられる。

 

「いってーな!急になに・・・」

「勝手に引き止めちゃってごめん」

「・・・え?」

 

「乱馬も行って来なよ、東風先生のとこ」

「・・・や、別に今更行くほどでも・・・」

 

「あたし先に帰ってるね、じゃあ」

「おっおい?」

 

あかねは最後に思い切り乱馬に笑顔を見せて去って行った。

 

あれは違う。あれはあかねの本当の笑顔じゃない。

遠くで友達と笑い合っていた時の自分を動揺させた自然な笑顔とは全然違う。

 

考えてみれば、あかねに自然な笑顔を向けられた記憶がない。

それだけ自分とあかねには心の距離があるのだと思い知らされるような気がした。

 

 

 

幸い家には誰も居なかった。こういう時は一人になりたい。

誰かが居れば、楽しくもないのに楽しい風に笑わなければならない。

悲しい時でも、何でもない顔をしていなければならない。

 

それは今のあかねには苦痛だった。

 

かすみの前でだけ見せる、東風の舞い上がった姿を今まで何度見て来ただろう。

 

髪を伸ばせば、自分もかすみのように。

初めてそう思ったのは小学生の時だった。

とても単純な願いだったけれど、子どもの頃の自分は信じていたのだ。

 

自分もかすみのようになれば、きっと東風の好意を得られるのではないかと。

 

本当はずっと分かってた。

いつの間にかこの髪は募る想いの願掛けと化して、叶えられないまま成長を続けている。

 

いっそこの髪ごと、記憶も消えてくれれば楽なのに。

 

縁側に腰掛けて、まだ日差しが高い空を眺めた。

今頃きっと東風の家で、かすみも乱馬も笑っているんだろう。

 

 

ごとり、と廊下に陶器の音が重い響いてあかねはびくりと跳ねた。

 

「何、びっくりしてんだよ」

 

振り返ると湯上りらしい乱馬がクビにタオルをかけた姿で、切り揃えた西瓜の盛られた皿をあかねの近くに置く。

 

「西瓜食わねえ?」

「・・・いい」

「あそ」

 

乱馬は断られた事を気にする様子もなく、置いた皿を挟んであかねの隣りに腰をかけると西瓜を手に取り齧る。

しゃくり、と瑞々しい音がして間もなく乱馬は唇を突き出して器用に種だけを庭先に向かって飛ばし始めた。

 

「へへっ、上手いだろ」

「なにそれ、下品な食べ方」

「けっ、西瓜の食い方に上品も下品もねえよ」

 

そこで会話は途切れた。

元々気を許し合っている訳でもない。

 

会話が弾んだことなど一度もない。

たまに乱馬がちょっかいを出した事に、あかねが怒ってくるくらいの事だ。

 

 

「・・・東風先生のとこ行かなかったの?」

「んー?まあな」

「おはぎ食べたかったんでしょ。行って来れば良かったのに」

 

「ああなった先生んとこ行くほど危険な事ねーだろ」

 

確かに。かすみを前にした東風の挙動を考えると、恋愛どうこうでなくても離れた方が得策だ。

 

「お前こそいいのかよ?」

「何がよ」

 

「わざわざ読書する振りして待ち伏せする程会いたかったんだろ、先生に」

 

かっとなって乱馬を睨む。どうしてこの男はこんなに無神経なんだろう。

人が踏み込まれたくない領域までずかずかと踏み入って来て荒らす。

 

東風先生なら、絶対にそんな事はしないのに。

 

「あんたこそなんなのよ。いつの間にか公園に居るなんて。私の後でもつけてたの?」

 

齧った西瓜を種ごと飲み込んだ乱馬はぶほっと吐き出した。

 

「・・・なわけねーだろ!!九能から逃げてきたらお前が公園で呑気に居眠りこいてるとこに、変な男たちが居たから追い払ってやったんだよ!!」

 

「え・・・そうなの?」

 

「全然気が付かないくらい爆睡してたからな。ぐーぐーと」

「う、嘘よ!イビキなんてかいてない!」

 

「いやー、あれは公園中に響いてたなー。なんの魔物の唸り声かと・・・」

 

近くにあったなびきのファッション雑誌を乱馬に向かって投げたが、乱馬は器用に避けてまた元の位置に座る。

そのままなびきの雑誌は乱馬を越えて床に落ちてパラパラと捲れる音を立てた。

 

「なんだ元気じゃねえか」

「何よ!あんたが怒らせてるだけじゃない!」

 

「怒る余裕があるってことだろ。十分じゃねえか」

「・・・・・・」

 

なんなんだろうこの男は。無茶苦茶な事を言っている様で、時々ぐうの音も出ないような事を言う。

 

「元気なんかじゃない!あんたみたいなガキ男子に分かるわけない」

「は?同じ年の癖に何言ってんだよ」

 

「どうせ恋愛のひとつもした事ないんでしょ!そんなあんたに何が分かるのよ!」

「お前だって片思いしてるだけの事じゃねえか!偉そうに言うな!」

 

しまった、と思った時は遅かった。

恐る恐る見ると、撃ち抜かれて茫然としているあかねの横顔が見えた。

 

ああ、またやってしまった。

何故自分の言葉は、あかねを笑わせる方にではなく悲しませる方へ向かってしまうんだろう。

 

けれどあかねの言動は時々、自分の柔らかい部分を逆撫でする。

だから後悔しているのに、素直に謝る事も出来ない。

 

ただ本当に相性が悪いのだと、諦めるしかない。

 

 

重苦しい沈黙を埋め尽くすように、何処かで蝉が鳴いている。

あかねは脱力したように、背を逸らして床に両手を付いた。

 

「どうせあたしは・・・万年片思いよ」

 

「・・・そ、そんな事言ってねえだろ」

 

「片思いなんか恋じゃないってバカにしてるんでしょう」

 

「おれがいつそんな事言ったんだよ。勝手に勘ぐって傷つくな、ばか」

 

ばかと言われたのには腹が立ったが、乱馬の言葉は確かに正しかった。

乱馬はこれまで、東風先生に片思いするあかねをからかう事はあっても、本気でバカにしたり嘲笑ったりした事はない。

 

「・・・そうだね。今のはごめん」

 

急に素直に謝られた事で、乱馬は居心地が悪くなる。

 

「や、あの、おれも言い過ぎた・・・かも」

「今のは多分・・・私が自分で思ってる事だ。片思いなんか恋じゃない」

 

そう呟いた瞬間に、視界がぼやけてきた。

ああ、だめだ。乱馬の前で泣いたりしたくない。弱い姿なんか見られたくなんかない。

 

懸命に瞬きを繰り返し、何とか涙を引っ込める。

 

「ねえ、乱馬」

「ん?」

 

「乱馬は好きな子居ないの?」

 

気持ちを戻すようにわざと明るいトーンで乱馬に訊くと、ぐっと赤くなった乱馬が大袈裟なくらい西瓜に大きく齧りついた。

そうして咀嚼をすると、また器用にぷぷぷと西瓜の種だけを飛ばす。

 

「・・・いねーな。そんなもん格闘の邪魔だ」

「そうなんだ。なーんだ。つまんない」

 

「な、なんでだよ」

「だって乱馬にも好きな子居るなら、お互いに相談したりとかさ、出来るかなって」

 

「そんな気色悪い事出来るかよ」

「・・・そっか。気色悪いか・・・乱馬らしいね」

 

乱馬らしいって、まだ会ったばかりのお前がおれの何を分かってるんだよ。

自分でも理由が分からない怒りが湧いてくる。

 

そもそもおれの事なんてちゃんと見た事ねえくせに。

 

・・・や、ある意味全部見られてるか。

 

ふとみれば、手を伸ばせば届くくらいの距離にある白くて細い指先。

あの時、湯煙の中で偶然にも見てしまったあかねの肌も驚く程白かった。

 

手・・・握りたいな。

そう思った瞬間にうわっとなって乱馬は急に立ち上がった。

 

「え・・・何?どうし・・・」

「おれ道場行ってくるわ」

 

「お風呂入ったとこなのに今から?」

「ああ、急に身体動かしたくなった」

 

「それならあたしが相手するわよ」

「いや、一人がいい」

 

あまりにもきっぱり断られたので、怒りも出て来ずにぽかんとするあかね。

乱馬は準備体操の様に両腕を大きく伸ばすと、ふとあかねの方を見て言った。

 

「それと、お前はあれだ。片思いを馬鹿にし過ぎだ。片思いに失礼だぞ」

 

「え?なにそ・・・」

「恋愛は全部、最初は片思いからだろ。片思いから始まるんだ」

 

「・・・・・・」

「あ、西瓜食べねえならラップ包んで冷蔵庫入れといてくれ。おれんだからな」

 

びしっと言って廊下を駆け抜けていく乱馬。

何威張ってんのよもう!と言いたかったが、その前に乱馬の姿は消えていた。

 

「あいつ・・・何様のつもり」

 

腹立たしい紛れで、余っていた西瓜の一切れを手に取る。

しゃくりと齧ると生温いけれど瑞々しい。

 

それから少し遅れて来た甘さ。

 

 

 

終わり

 


・あとがき・

初期の頃の乱馬とあかねの距離感のある関係が結構好きで、原作としてはそこから早めに次の段階に展開していってしまいましたが

もっとあの時期をゆっくりと眺めていたかったという願望は今でもどこかに残っています。