猫背・18才

「何だこの既視感・・・日常の風景見てるようにしか思えねえぞ」

 

「・・・そうね。完全に真っ白なおじさまね」

 

 

私は乱馬と二人で大きな水槽の前に立っている。

その水槽の中で所狭しと泳いでいるのは、私たちよりも遥かに大きな白熊だ。

 

 

白熊の目線は完全に水槽を挟んだこちらに向かっており、アピールするように左右を行ったり来たりと大きなお尻を振って泳いでいる。

 

人前で注目を浴びると俄然調子に乗るその様子もまるでおじさまのようだ。

 

 

「まさか、あいつここで白塗りしてバイトしてんじゃねえか?」

 

 

思わずあはは、と声を出して笑う。

それを見た乱馬も楽しそうに笑った。

 

 

二人で笑い合うの久しぶりだな。

いつもこうして居られたらいいのに。

 

そう出来ないのもまた、私たちらしいけれど。

 

 

 

『水族館に行こう』

 

 

 

最初に言ったのは乱馬の方だった。

 

 

理由は何となく分かってる。

ほんの少し前まで私たちは割と長い大喧嘩をしていたからだ。

 

 

シャンプーとPちゃんの事で。

 

 

親が決めた許嫁として初めて出会ってから2年。

私たちの関係は、表側では何も変わっていない。

 

相変わらず『親が決めた許嫁』だし、相変わらず『好き』という言葉はどちらからも告げられていない。

 

 

それでもまるで進展のないように見える私たちにも、ほんのりとした変化はあった。

 

ただそれが、本人たちが思うほどは周りにバレていないだけ。

 

 

乱馬はいつからか互いに用がない休日に、自分から私を何処かへ誘うようになった。

 

最初のうちそれには必ず何かしらの理由が付いていたから、特に不思議にも思わずに居た。

 

 

『前売り買ったらヒロシのヤツがドタキャンしやがったから・・・』

 

『もうすぐ母の日なんだろ?何あげていいか分かんねーから、一緒に選んでくんねえ?』

 

『大介から絶叫遊園地の半額パスチケット貰ったんだけど、二人まで割引だからお前も行く?』

 

 

単にたまたまだと思って居たのは、3回目くらいまで。

 

出掛けた先でいつからか何処からか、互いに自然と手を繋ぐようになり、それが互いに腕を組むようになった頃には、乱馬からの誘いに『理由』が外されていた。

 

 

 

手を握っていても、腕を組んでいても。

私たちの間に、恋人と呼べるほどの甘い空気はない。

 

会話も家で夕飯の時にテレビを見ながら話してるような事と変わらないし、言い合いの喧嘩になることも多い。

 

ただそんな時でも手を繋いだままだったり、腕を組んだままだったりするだけ。

 

 

 

そうして理由がなく何処かに誘われて、互いに前もって予定を合わせるようになって。

 

最近では休日に乱馬と出掛けるのが、当たり前のようになって。

 

だけどふと、着ていく服のコーデを懸命に選んでいる自分に気が付いて驚いたりする。

 

 

 

これは・・・デートなの?

 

 

 

 

鏡の向こうの自分が戸惑った顔をしていた。

 

 

けれどもしそれをはっきりとそれを訊いたら、乱馬はどうなるだろう?

 

きっと顔を真っ赤にして固まる。

『そ、そんな訳ねーだろ!』と思いっきり否定的な事を言われる。

 

そうして二度と誘われなくなる。

 

 

そんな場面以外浮かばない。

 

 

はっきりした答えは欲しいけど、乱馬がこちらも見ずに無言で差し出してくる手や、ふいに手首を掴んで人混みから守ろうとしてくれる瞬間を、私は失うのが怖い。

 

 

結局何も言い出せないまま、休日の約束は続いていた。

 

 

シャンプーとPちゃんの事で私が乱馬と喧嘩になったのは、そんな頃だった。

 

たまたま友達との約束があった私が家まで

向かっている途中で、先に帰った筈の乱馬と遭遇する。

 

よりによってシャンプーと腕を組んで歩いている後ろ姿に。

 

 

 

シャンプーから腕を組んだんだろうって事は分かってる。

 

そんなの前々からあることだ。

 

あり過ぎて乱馬が私を見て殴られるか怒鳴られるのを予想して焦る姿に、今更怒るのも面倒だと、スルーして通り過ぎたこともあったくらいだ。

 

 

でもその日の私は、怒るのも、スルーする事も出来なくて。

 

ただただショックで立ち尽くしていた。

 

 

言葉がなくても、喧嘩はしていても、ただ手を繋げるのが嬉しかった。

自然と腕を組めるようになったのがとても嬉しかった。

 

 

でもシャンプーは、まるで当たり前のように乱馬と腕を組んでいて。

 

乱馬はシャンプーの腕を強引にほどいたり逃げたりはせずに、ただ焦りながらキョロキョロとしていた。

 

 

ああ、なんだ。

私たちが特別だと思っていたのは。

 

 

勝手に勘違いして喜んでいたのは私だけだったんだ。

 

 

ずしりと重たい思考が落ちてきて、涙腺が緩む。

 

 

 

二人の姿を頭から振り払えるまで、涙が止まるまで帰れない。

 

何とか近くの公園のベンチまで辿り着いて、ぽつりと座る。

 

けれど目にしっかりと焼き付いてしまった二人の後ろ姿を、振り払う事は少しも出来なかった。

 

腕を組む。手を繋ぐ。

そんな事で凄く喜んで自惚れていた自分が情けなくて格好悪くて。

 

それでも嬉しかったのに。

とても大事だったのに。

 

そんな事を繰り返し考えて泣いているうちにあっさり夜が来た。

 

 

 

きっと泣きすぎて顔も目もぱんぱんだ。

余計に帰れない。

 

 

途方にくれていた私の足元に、何かがぶつかった。

 

ふと見れば外灯の光に照らされたそれはPちゃんで。

私を見つけて嬉しそうにじゃれついて来たPちゃんは、私の腫れた顔を見て何かを察したように手足をバタバタとこちらに伸ばしていた。

 

 

「・・・慰めてくれるの?Pちゃん」

 

 

足元のPちゃんを抱き上げて、きゅっと胸に抱き締める。

 

Pちゃんの身体が暖かくて、悲しい気持ちを和らげてくれて、私はそんなPちゃんが愛しくて。

抱き締めたまま頬擦りをする。

 

 

 

「何やってんだ!!」

 

その瞬間に突然後ろから怒鳴られて、誰かにPちゃんを素早く奪われた。

 

驚いて振り返ると奪ったPちゃんを乱暴に握ったまま、凄い顔付きで私を睨む乱馬が居た。

 

 

「おめーいい加減このブタどうにかしろよっ!この尻軽女!!」

 

 

信じられない言葉が飛び込んできた。

あまりの怒りで血の気が引いた。

 

 

さっきまで別の女の子と腕を組んでいた奴が言っていいことじゃない。

 

しかも私はペットに対してしたことだ。

 

 

とんでもない乱馬の態度に、眩暈がしてくる。

 

その後に激しい言い合いになった事の内容を殆ど覚えていないくらいだ。

 

 

「だから!シャンプーの事は誤解だって言ってんだろ!おめえこそいい加減このブタから卒業しろよっ!!ガキじゃねーんだから!」

 

 

そこだけはっきり覚えてる。

誤解も何も抵抗もしてなかった癖に。

 

しかも何で私はこんなにPちゃんの事で責められるんだろう。

 

 

なんて冷静な言葉も浮かんでこないくらい、怒りに任せて色んな事をぶつけていた。

 

お互いをお互いの言葉でズタズタにして、私はPちゃんを返してくれない乱馬をひっぱたいて。

 

最後はただ互いに無言のまま、家まで辿り着く。

 

 

 

そんな私たちを家族は見慣れているから、とにかく帰宅したことだけを喜んで、私が夕飯も食べずに2階へ行くことも、誰も何も言わなかった。

 

きっと居間で乱馬が根掘り葉掘り訊かれていたんだろう。

 

 

そのまま2週間。

私たちは口をきかずに互いに見えないものとして過ごしていた。

 

乱馬と過ごさない休日のカレンダーの日付に、傷付きながら。

 

 

 

乱馬の事を考えないように出来るだけ友達と放課後を過ごして、その日も帰りは日が暮れかけていた。

 

赤く染まる雲が色のトーンを落としていく空と混ざっているのを眺めながら、無意識に溜め息が出る。

 

乱馬が私の目の前に突然着地してきたのは、その時だった。

 

 

「よっ、と」という何時もの弾みをつける声がして、乱馬は私の目の前に立ち道を遮った。

 

 

「・・・まだ怒ってんのかよ?」

 

 

私はその言葉が本当に好きじゃない。

まだって何なの?

私だけがずっと怒ってるみたいに。

 

自分だってずっとつーんとしてた癖に。

 

 

「・・・別に」

 

 

そうとしか答えられないから困る。

 

 

さっきの言葉は好きじゃないけど、分かってる。

そろそろ仲直りしようという乱馬なりの私へのアピールだという事は。

 

けれど素直に答えられない言葉だから私は冷たく避けて乱馬を通り越す。

 

 

これでまたきっと怒った乱馬が暴言を吐いて私たちの喧嘩は悪化する。

 

私は心の中でそれを構えた。

 

 

 

 

「あかね」

 

 

 

 

「な、なびきに無理矢理売り付けられた水族館のチケットあんだけど・・・行かねえか?」

 

後ろから来た予想もしない言葉に驚いて、私は思わず振り返った。

 

 

「・・・・・・え?」

 

「だ・・・だ、から・・・なびきに無理矢理チケット売り付けられたんだよ。お前と仲直りしろって・・・行かねえか?」

 

 

あまりの意外な展開に驚いて、なかなか言葉が出ない。

 

 

「・・・い、行きたくねえなら・・・はっきり言えよ」

 

 

乱馬は不安そうに俯いて、アスファルトに視線を落としている。

 

ああ、こんなことで簡単に私の怒りは揺らいでしまうんだ。

 

 

あんなに傷付け合ったのが嘘みたいに。

 

 

「・・・行く」

 

 

色んな感情が駆け巡って、私はまだ怒っていたのに、ついそう言ってしまった。

 

 

その瞬間に顔を上げた乱馬の顔で、まだ消えていない筈だった怒りがほぼ吹き飛んでしまう。

 

 

ほんの一瞬だけ、乱馬は表情を崩して口元がとても嬉しそうに緩んだ。

 

それから急にその口がぐっとへの字にがって、怒っているような顔になる。

 

顔はただただ真っ赤なままで。

 

 

「じゃ、じゃあ今度の日曜な」

 

「・・・うん」

 

 

素っ気ない風に言われて静かに答えると、乱馬は私を通り越し、少しずつ足を早めて、最後は猛ダッシュして見えなくなってしまった。

 

 

 

 

そして今私たちは久しぶりに二人で休日を過ごしている。

 

最初は少しぎこちなかったけれど、さっきの愛想の良い白熊のおかげで私たちに何時もの空気が戻ってきた。

 

アザラシのショーのアザラシの動きがやたらと可愛くて、私たちは笑い転げながらアザラシのブサ可愛い姿に夢中になる。

 

 

「はーっ、私もう、私今日でアザラシのファンになったぁ~」

 

とショーの後についポロリと言ってしまったら、乱馬に笑われた。

 

 

「ファンてなんだよ、ファンて」

 

 

え、変なのかな?

と不思議に思ったけど乱馬がとても楽しそうだから変に思われても悪くない気がした。

 

 

 

日曜日のせいもあってクラゲの展示スペースはとても混み合っていた。

 

暗くて混み合う水槽の前で、私たちの距離も自然と縮まる。

賑やかに叫ぶ子どもたちや家族連れの人たちに少し揉まれながら、私たちはようやく次のクラゲのコーナーに立つ。

 

 

少し大きめの円形に縁取られた水槽に幾つも泳ぐ丸くて小さなクラゲは、暗がりの中で発光して美しかった。

 

 

「・・・わぁ・・・おっきなスノードームみたい」

 

「・・・ん?」

 

 

賑やかなせいと身長差で私の呟きが聞き取れなかったらしい乱馬が、私の足りない分だけ自分の背を丸めてこちらに顔を寄せてくる。

 

 

ああ、そうだ。

私なんで忘れていたんだろう。

 

 

特別に感じていたのは、手を繋ぐ時に無言で差し出される手だけじゃない。

 

腕を絡ませて組むことだけじゃない。

 

 

私が大好きな乱馬の仕草。

 

 

 

私の言葉をちゃんと聞き取ろうとして、私の分だけ背を丸めてくれる時。

 

少し恥ずかしそうにしながらも、ちゃんと私の言葉を聞こうとしてくれる時もだ。

 

 

 

「・・・おっきなスノードームみたい」

 

 

互いに見合った距離が近くて、しばらくそのまま固まった。

見上げる私と屈んでいる乱馬。

 

 

すぐ近くにある乱馬の深くて黒い瞳に自分が映っている。

 

 

けれどこんなに賑やかな場所でそんな距離をゆっくりと保つのは不可能で。

 

私たちは何事もなかったように視線を外して次の水槽へ進む、んだと思っていたのに。

 

 

急に乱馬に手首を捕まれて引っ張られて。

 

 

久しぶりに手を繋がれたかと思ったら、水槽のない大きな円形の丸い柱と壁の暗くて人の居ない端の方に連れていかれた。

 

 

「・・・乱馬?ここ何もないよ?」

 

 

振り返った乱馬を見上げて訊ねる。

 

それが聞こえなかったのか乱馬は「ん?」と何時もの様子で背を丸めて私の方に顔を近付る。

 

そしていつものようにもう一度同じ事を言おうとしたら、ゆっくりと近付いた顔が私に重なって唇に柔らかくて熱い何かが触れた。

 

 

それをきっかけに賑やかだった筈の展示スペースの空間は、急に水の中に沈んだ時のように音が遠ざかる。

 

 

 

・・・ああ、そっか。

私今、キスされてるんだ。

 

 

 

少し遅れて理解をした時に乱馬の手が私の首を自分の方に更に寄せるように、優しく力が掛かる。

 

そのおかげで緊張か心地良さか分からないままふらつきそうだった自分の身体は、バランスを崩さずに済んだ。

 

 

 

私に柔らかく張り付いていた乱馬の唇がゆっくりと離れた時、私はようやく勇気を持って乱馬を真っ直ぐに見上げた。

 

 

 

「ねえ乱馬・・・これはデート?」

 

 

 

乱馬は暗がりの中でぶっと吹き出した。

それは笑いなのか、呆れなのか、暗がりだとよくわからない。

 

 

「お、おれはそのつもりだったけど・・・お前は違うのか?」

 

 

 

私が予想していた返事とは、まるで違う答えが返ってきた。

 

そうしてちゃんと理解する。

私たちは何も進んで居ないようでいて、ゆっくりと進んでいるんだ。

 

 

返事をする代わりに乱馬の胸元にそっと寄りかかると、もう一度背を丸めた乱馬の唇が私に触れた。

 

 

 

お土産コーナーで乱馬は、白いゴマフアザラシの赤ちゃんのぬいぐるみを私にプレゼントしてくれた。

 

「百歩譲ってP助を部屋に入れんのはいいけど・・・せめて夜に抱いて寝るのはそれにしといてくれねえか」

 

 

「乱馬、それって・・・」

「おれはっ・・・お、お前と一緒に寝てるブタに妬いてるんだよ!わりーかよっ」

 

 

正直に言われて、やっぱり驚いた。

乱馬がそれを認める時が来るなんて、この先も永遠に絶対ないと思ってた。

 

 

 

そして逆に『絶対』が存在しないんだってことを思い知る。

 

ようやく自分から解放された真っ直ぐな気持ちが、今の乱馬のことを正面から見つめる。

 

 

 

ねえ乱馬。

私は好きだよ。

 

その手も腕も私の為に丸まる背中も。

時には私を簡単に深く傷付けるあなたの感情的な言葉もその声も。

 

 

許せないと嬉しいのふり幅が大き過ぎて、息が詰まりそうになる事が何度もある。

それでも私はやっぱり、

 

 

全部好きだよ。

 

 

 

 

 

終わり。

 


・あとがき・

もう既に原作後半の方から乱馬があかねに対して手を繋ぐ描写は割と出てきたり、あかねを暗い中で押し倒そうとしかけたり、原作の中でも全然進んでないでようで進んで行っている二人がその後どんな風に進んでいくのか少しずつ場面を切り取っていきたいなと思いながら書いてます。