夢見草


 

 

 

「よーやく解けたっ。これでいいかあか・・・」

 

何とか数式の答えを導き出した乱馬が得意げに隣を見ると、そこには椅子の背もたれに寄りかかって音もなく眠るあかねの姿があった。

 

「っておい。寝てんのかよ」

 

そう言えば今日、あかねは体育の授業だけではなく朝から身体を思いっきり動かしていた。

急な足のケガをした三年生の代わりに、バスケ部の助っ人を頼まれたらしく朝練にも出ていたからだ。

 

机の上には自分のまだやりかけの宿題のプリントの隣に、ノートの下に隠された最後までの数式や答えがしっかり書かれているあかねのプリントがある。

 

そうだ。あかねが宿題を丸写しさせてくれるなんて事はとても少ない。

乱馬の為にならないからと、ヒントは出してくれても自分で考えてと言われる事の方が多い。

 

まあそのおかげで割と学力を必要とする今の高校にも何とか一緒に入れたのだが、寝てしまっている相手の隙を狙わない手はない。

 

 

「・・・ラッキー」

 

気配を消してノートの下のプリントを抜き取るなんて、乱馬には取るに足らない事だ。

そう思いあかねのプリントの端を摘まんだが、ぴたりと止まる。

そうして思い直してそれを離す。

 

ふと見れば、窓の向こうで暮れ始めたばかりの空の反射が黄色味を帯びて眠るあかねの頬を照らしている。

久しぶりにあかねの寝顔をこんなに間近で見たような気がする。

そして急激に愛しさと懐かしさが込み上げてきた。

 

 

 

 

「スペース戦隊ごっごやろうぜ!おれスペースレッド!!」

 

休み時間を知らせるチャイムが鳴った途端に乱馬がそう叫ぶと、級友たちが一斉に集まってくる。

 

天道家の居候となった乱馬は4月に無事に小学校への入学を果たし、予想していた以上に学校の生活に馴染んでいた。

 

それは入学というキリの良い機会からのスタートであった事もあるが、同じクラスにあかねが居てくれた事も大きい。

 

元来の人の好さと、ボーイッシュな髪型をしていてもはっきりした目鼻立ちをしているあかねは、男子からも女子からも一目置かれる存在で、入学してすぐに人気者となった。

 

そのあかねと同じ道場に通い同じ屋根の下に住んでいる乱馬は、多少ぶっきらぼうで乱暴な所はあれど、あかねの兄妹や従兄みたいな存在として周囲に許容されていた。

 

不思議と同居している事を、変にからかわれる事もなかった。

まあからかおうものなら乱馬の鉄拳が飛んでくる訳だから、怖くてからかえなかったというの事もあるのかもしれない。

 

 

「おれ!スペースブルーっ!」

「じゃあおれは!グリーン!!」

「あたしスペースピンクっ」

「私さらわれる女の子!」

「えーおれイエロー?まあいっか今日くらい」

 

次々と名乗りを挙げる中で、出遅れてしまった女の子が俯いて泣き出しそうになっている。

 

「あ、あたしもピンクが良かった・・・」

 

他のメンバーがうえーっと面倒そうに顔をしかめる中、最初にピンクを名乗ったあかねがその子の所に寄っていく。

 

「あたし、やっぱピンクやーめたっ。亜弥ちゃんがやりなよピンク」

「え?いいの・・・?」

「うん。ホントはあたしピンク色あんまり好きじゃないし」

 

 

 

嘘をつけ、と乱馬は思う。

あかねが机の中に大事にしまっている宝物のキャラクターグッズは、殆どが淡いブルーかピンクだ。

 

 

 

「えー!そしたらあかねはどうすんのー?乱馬とあかね居ないとつまんねーしな」

「そそ、動けんのが居ねえとなー」

 

「あ、はいはい!あたしねやっぱ怪人やる怪人!」

 

 

・・・え、怪人でいいの?

とその場に居た全員が疑問に思う。

 

「だって乱馬とあたしが敵役だったら、面白いでしょう!」

 

確かに。二人とも格闘道場に通っているだけあって、他の子ども達とは格段に動きが違う。

しかもにっこりと笑うあかねから、微塵も嫌な空気は感じられない。

 

「あかねなら相手に不足はねえな!」

 

乱馬もあかねの提案に乗ってスペースレッドのポーズを取る。

それに釣られるように、他の子ども達も乱馬の横に一列に並んで各ポーズを決めた。

 

 

 

「なあ、あかね」

「ん?」

 

「家に帰ったらまたやろうぜ!スペース戦隊ごっこ」

 

乱馬は通学路の道をあかねと並んで歩きながら、ランドセルを背負ったままでスペースレッドの技の真似をする。

 

「えー?まーたやるの?さっきやったばっかなのに」

「うん、何回でも良いっ」

 

乱馬は天道家に居候するまで、そもそもテレビを殆ど見たこともなかった。

天道家に来てからテレビの面白さに夢中になり、特に戦隊ヒーローものに憧れるようになったのだ。

 

「二人だけじゃ人が足りなくない?」

「いいじゃんそれで。おれレッドやるからお前ピンクな」

 

 

言い切った乱馬をあかねはびっくりした顔で見る。

 

 

「あたし・・・怪人じゃなくていいの?」

「なんで怪人なんだよ。そもそもお前怪人全然合ってなかったし」

 

きっぱり言い切られたあかねは少し複雑そうな顔をしたが、反論はしなかった。

 

「じゃあ敵役は?どうする?」

「庭にあるさくらんぼうの木でいーじゃん。あれさくらんぼう爆弾な!当たったら死ぬスゲー奴!」

 

 

「・・・あの、あのね乱馬・・・お願いが」

「ん?」

「あたしピンクじゃなくて・・・ま、魔法少女でもいい?」

 

「なんだそれ」

「あの・・・最近流行ってるんだけど・・・女の子の中で」

 

そう言われてみれば、クラスの女子たちがそんな話を夢中でしていたような気がする。

 

「お前そっちのが好きなの?」

「や・・・う・・・うん。変かな?」

「なんで変なんだよ?」

 

そこであかねは俯いてもごもごとする。

 

「だって・・・あたしみんなに男の子みたいでカッコいいって言われてるし。あんまり女の子みたいなの好きだと変かなって・・・」

 

「全然変じゃねーよ。だってお前、どう見たって女の子じゃん」

 

 

 

乱馬にしてみると、ごく当然の事を言ったつもりだった。

確かに初対面では顔立ちの綺麗な男の子だと勘違いはしたが、その後からあかねを男の子らしいと思った事は一度もない。

 

あかねは乱馬の言葉を聞いた途端に立ち止まった。

 

 

 

「今の・・・ほんと?」

「なんでおれがそんな嘘つくんだよ。あかねはどっからどー見ても女だろっ」

 

 

疑われた事に少し腹を立てながら、あかねの俯く顔を覗き込んだ乱馬がぎょっとなって固まる。

 

 

「・・・お前・・・な、なんで泣いてんだ?」

「あれえ・・・?ほんとだ・・・なんでだろ?」

 

 

えへへと笑いながら、あかねは手のひらで懸命に自分の目を擦って涙を拭っている。

 

「・・・おれ・・・なんか悪いこと言った?」

 

ぶんぶんと首を横に振りながら、あかねは大粒の涙を零している。

 

 

 

「ちがう・・・嬉しいの」

 

あかねは涙をぽろぽろと零しながら、とても幸せそうに笑った。

 

 

 

 

その時だったかもしれない。

 

自分が初めて誰かの為に、この世界に存在しているような気がしたのは。

 

 

 

「あ、あのさ」

「・・・ん?」

「おれさ、誰にも言わねえから」

「何を?」

「あかねが本当はピンク好きなのも、魔法少女が好きなのも」

「・・・・・・」

「だから、おれと二人で遊ぶ時はあかねが好きなのしろよ、な」

 

「・・・いいの?」

「うん、いいよ」

 

「乱馬・・・ありがとう」

 

 

 

まだ涙を残したままにっこりとしたあかねの顔に、何かが大きく揺れた気がした。

 

 

 

「ただいまー!!」

「おかえりなさい二人とも」

 

 

洗濯カゴの中に庭から取り込んだばかりの洗濯物を詰め込んだいずもが迎えてくれる。

 

 

「おやつあるから手洗いとうがいしてきてね」

 

「はーいっ」

「おばさんっ!今日のおやつなあに!?」

 

真っ直ぐに手洗いに向かったあかねとは別に乱馬はどきどきとした目でいずもを見上げる。

 

「今日はねー、特別にホットケーキよ~」

 

『ホットケーキ』と聞いた乱馬の目が興奮できらきらと輝いた。

 

あの茶色くてフワッフワのとろとろの甘い、バターの優しい味のするのだ!!

 

「乱馬くんも早く手洗いうがいしてこないと、あかねも大好きだから食べられちゃうわよ」

「う、うんっ!!あかねー!!おれのまで食うなよ~っ!!」

 

乱馬は慌てて洗面台へ駆けていく。

 

 

家で食べる色々な物がこんなに美味しいと知ったのは、天道家に来てからだった。

父と修行の旅をしてきた乱馬は、いわゆる普通の家庭の味というものを知らずに来た。

 

獣肉や野草や魚、それらを簡単に焼いて食べる事は知っていたし、外で出来る範囲の汁物やら飯、カップラーメンなどの簡易で即席なものは食べたことがある。

 

けれど一般的な家庭料理の味は全く知らなかったし、いずもはどうやら家庭料理の達人らしかった。

近所の主婦がわざわざ煮物の味付けや順序のアドバイスを訊きにくる程だ。

 

天道家を訪れて以来、ただ腹が膨れればいいと思っていた食事は突然至福の時間となった。

 

 

温かくて柔らかくて出来立てで。

食卓を囲む皆から笑い声が絶えない。

たまに誰かと誰かが言い合いになっても、喧嘩をしていても。

別の誰かが笑いを誘いだしたり、一緒にしんみりしたり。

 

 

乱馬にとって天道家は、風の強くない日の森の中の陽だまりのような場所だった。

 

 

 

夏休みのお盆の頃には地区の子供会で、肝試しが行われた。

お化け役は役員の大人たちと高学年の子どもたち。

 

一年生である乱馬とあかねはコースを巡回する方である。

 

 

「あら、あかねと乱馬くんがコンビなの?あなたたち本当に縁があるわね」

 

お化け役をするらしいいずもは、順番を並んで待つ二人に声を掛けた。

 

「おばさん、縁てなんだ?」

「うーん、そうね。目に見えない繋がりがある人って言ったらいいのかしら」

 

目に見えない繋がりって何だ?

見えてないのにどうして繋がってるって分かるんだ?

 

乱馬が混乱して頭をひねっている間にあかねが恐々といずもに訊ねる。

 

「ねえ、お母さんどこに出てくるの?教えて?」

「やーだあかね、それ教えちゃったら面白くないでしょう」

 

「面白くなくていいのっ!怖くなければいいのっ!!」

 

急にあかねが大きく叫んだので、周りの子ども達も乱馬も驚く。

 

「・・・もしかしてあかね。怖いのか?」

「・・・・・・別に」

 

皆の視線を一斉に浴びた事であかねは戸惑いながら素っ気なく呟いた。

見栄を張って強がっているが、明らかに落ち着かない様子だ。

 

 

「あかねはねー、幽霊番組も一人じゃぜーったい見れないんだから」

「おねーちゃん!!」

 

「いっつもお母さんに抱き着きながら幽霊番組見てるもんね~」

 

「そうなのか?」

 

なびきにからかわれたあかねは、顔を真っ赤にして口を尖らせている。

 

「なびき、あかねちゃんからかうのやめなさい」

 

かすみは小学生でありながら、いかにも長女らしい口調でなびきをたしなめる。

 

「乱馬くんが一緒だから大丈夫よ、ねえ乱馬くん?」

「おう!まかせとけ!」

 

少し大人びたかすみにそう言ってもらえた事が嬉しくて乱馬は胸を張る。

 

「帰ってきたら、ご褒美にアイス貰えるから。二人ともがんばってね」

 

いずもはにっこり笑うと乱馬とあかねの頭を交互に撫でて、お化け役へと向かって行く。

 

 

「おー!アイスだってよ!あかね!」

「う、うん・・・」

 

アイスと聞いても全く気が乗らない様子のあかねは、本当にお化けが苦手らしい。

しかも順番が近づくにつれて気持ちが怯んで来たのか、あかねは順番を皆に譲り始めた。

 

「おい。早くいってさっさと戻ってきて、アイス食おうぜ」

 

そう言ってもあかねは首を横に振ってばかりで、どんどんと順番を遅らせていく。

 

 

「あかね、あんた一番最後がいちばーんこわいって知らないの~?」

「・・・え?」

 

なびきからそう聞いた途端に涙目になったあかねは、既に一番最後まで残ってしまっている。

 

「なびきちゃん」

咎めるようにかすみに腕を引かれたなびきは、にっと悪戯っぽく笑んで見せる。

 

 

「一番最後の組には後ろからお化けが付いてくるんだって~。がんばってねー!」

 

なびきはすぐ下のあかねをからかって遊ぶのが楽しいのか、かすみに引っ張られながら二人に手を振って公園墓地のコースの方へ消えて行った。

 

 

 

「どうしよう乱馬っ!」

 

最後に残されたのは二人と役員の隣のおじいちゃんだけである。

あかねは完全にパニックになっているのか、既に息が荒い。

 

「おちつけ、あかね。あんなのなびきのウソに決まってんだろ」

「でもわかんないもん!来たらどうしよう!?」

 

「ほれ二人とも、5分過ぎたぞ。そろそろ行かんとな」

 

やせ型で目が数字の3を逆にしたような形をしたおじいちゃんは、うちわで自分を仰ぎながらのんびりと二人を促した。

 

 

 

「行こう、あかね」

 

けれどもあかねはすっかり足がすくんでしまったのか動けない。

乱馬はあかねの手を握る。

 

「これなら少しは怖くねえだろ」

 

抵抗するように重たくなっているあかねの身体をこちらに引っ張るように乱馬はあかねの手を引きながら、公園墓地のコースの歩道を歩き始める。

 

夏の夜の公園墓地は空気がじっとりと蒸し暑く、確かに不気味ではある。

けれど乱馬はそもそも幽霊なんて存在を信じていない。

 

あかねの方はと言えば、さっきから何度も何度も後ろを振り返っている。

どうやら本気でなびきの言葉を信じ込んでしまったらしい。

 

「なんもいねーよ。気配しねーし」

「・・・乱馬なんで平気なの?怖くないの?」

「こんなのに比べたら、一人で山籠もりのテントに残された時のがよっぽど怖かったぜ」

「え・・・そんなことあったの?」

「ふつーだよふつー。あのろくでもねえ父ちゃんのせいで・・・」

 

 

その時手前の墓石から大きな影が飛び出してきた。

 

「がおーーーーーーー!!!!!」

「きゃああああああああああああ!!」

 

パニックで泣きつくあかねを左腕に抱えたまま、乱馬はその聞き覚えのあるシロクマに下から鋭いアッパーカットを決めた。

 

顎に激しい一撃をくらったシロクマは、両手を挙げて襲うポーズをとったまま、後ろにズシンと倒れて行った。

 

その勢いでぽろりとシロクマの頭が取れて、気絶しかかっている玄馬が現れる。

 

「なんで肝試しにシロクマなんだ!!あほか!!」

「おのれ乱馬、父を何だと・・・」

 

「ただのぐーたらの酒飲みだと思っとる」

「おじさま・・・大丈夫?」

 

心配するあかねをぐいっと引っ張る。

「ほっとけばいいよ。いこーぜ」

 

 

 

その次にドンドロドロドロという効果音と共に段ボールの井戸から出てきたのは、女性物の白装束を着た早雲だった。

 

「きゃああああああああああああ!!」

「あかねっ!おちつけって、おじさんだ」

 

「・・・え?お父さん?」

 

「い、いちまーい、に、にまーい・・・さ、さんまー・・・」

 

と言って何故か生の秋刀魚を差し出してきた。

怖がっていたあかねすらもしんとして、自分の父親を真顔でじっと見る。

 

「ほら見ろよ。すっごい濃い口紅塗ってるけど髭そのままだぞ」

「あ、ほんとだ・・・」

「ちょ、ちょっと乱馬くん。冷静に突っ込むのやめてくれる?あとさんまの下りもう少し皆にはウケたんだけどな・・・」

 

「・・・うそだろ?」

「・・・裏の飯屋~でぇ~さんまを焼いてくれんかねぇ~」

「・・・・・・」

 

「あかね、いこうか」

「うん」

 

「ちょっとおおおお、お父さんの渾身のギャグ聞いてっておくれ~うらめしや~!!」

 

 

 

その後出てきた上級生たちの幽霊にも乱馬が全くひるまないので、逆に幽霊の方がおどおどしてしまうという事態になった。

 

「乱馬、すごいね!全然怖くないんだね」

「ん?ああ」

「ほんとのヒーローみたい!かっこいい!スペースレッドだね!」

 

あかねはしっかりと腕に巻き付いてきたまま、全く怯まない乱馬にきらきらと尊敬のまなざしを向ける。

 

 

「お・・・おう!」

 

 

乱馬はすっかり胸をどきどきとさせながら顔を赤くしているのだが、暗がりのせいかあかねは全く気が付いていない。

 

 

 

「そこの可愛いお二人さん、仲良しでうらめしいわね~」

 

咄嗟にあかねを背中に隠して身構えた乱馬の前に、綺麗な花嫁衣裳を着て角隠しを纏う美しい花嫁が現れた。

 

「・・・・・・え」

「可愛いから二人とも攫っちゃおうかしら、コン」

 

「お母さん・・・すっごい綺麗」

「あらあっさりバレちゃったわね、コンコン」

 

「綺麗な花嫁さんってお化けなのか?」

「これはキツネの嫁入りよ」

 

 

そう言ったいずもは、後ろを向いてちゃんと縫い付けたらしいキツネのしっぽのようなものを見せた。

 

 

「お母さん、全然怖くないよ」

「ええ・・・あらあ~・・・今年は自信あったんだけどなあ」

 

 

本気でがっかりするいずもを見て、乱馬とあかねは顔を見合わせて笑った。

 

 

そうして肝試し大会は無事に終わり、子供たちは公民館で賑やかにアイスを食べる。

 

 

それからみんなで公民館の広場で花火もした。

乱馬はこんな風に手持ち花火で遊んだ事はなかったから、妙にはしゃいで火を点けたカラフルな手持ち花火をいくつも持って振り回したりする。

 

「乱馬っ!危ないんだからねー!」

 

 

そう注意するあかねの声も聞かずに、乱馬ははしゃぎまわっていた。

こんな風に夏が賑やかでドキドキで楽しいのは初めての事なのだ。

 

 

 

肝試し大会の後の夜。

 

一階の風通しの良い和室に張られた蚊帳の中に、乱馬とあかねは布団を並べている。

蚊帳の入り方はいずもに教えてもらったが、あかねよりも乱馬の方が上手だった。

 

蚊帳の中で寝るのは夏の間だけらしいが、まるで室内にテントを張って貰ったような気がして乱馬は興奮してしまい、いつもあかねより寝つきが悪かった。

 

 

それでも今日は二人とも肝試し大会や花火があったせいで、まだ余韻の興奮の中、互いになかなか寝付けない。

 

 

あおむけに並んでおなかにだけタオルケットをかけた二人は、白い蚊帳の中で天井を見上げている。

 

枕もとの明かりの反射を利用して、天井に二人で色んな影絵を作って遊ぶ。

 

「ぱたぱたぱた、これなんだ?」

「鳩!」

「せいかーい!じゃあこれは?」

 

「キツネ!!」

「せいかい、次は~・・・」

 

「待って次は、あたしする!」

 

 

そう言ったあかねは何やら手を合わせて何かの形を作っているのだが、いくら天井に映ったその塊を見てもそれが何であるのかさっぱり分からない。

 

 

「なんでしょーう!海の生き物ですっ」

「・・・え?えと・・・ジュゴン?」

 

「ちがーーーう!人魚だもんっ」

「・・・お前たまにとてつもなく不器用だな。ただの塊にしか見えなかったぞ」

「ひどい!!」

 

ぷうっとふくらんだあかねの頬っぺたは、まるで小さなふぐのように可愛かった。

 

ぷくっと頬が膨れたままのあかねも、遠くの国の王子になったような気分になれる白い蚊帳の空間も、蚊取り線香の薄っすらと薫ってくる独特の匂いも、ほんのりと涼しく流れてくる夜風も。

 

全部が夢の出来事のように美しく、柔らかだと乱馬は思う。

 

 

「・・・なあ、あかね」

「なによー」

 

「おまえんちってさ・・・天国みてーだな」

 

「普通の古いお家だよ」

「うん。でもご飯美味しくて、道場もあって、おばさんもおじさんも優しくて、姉ちゃんたちもいて、みんな賑やかで、あかねもいて、ここすっげー楽しい」

 

「あたしも?」

「そうだよ」

 

「そっか」

 

ぷくっと頬を膨らませたままでいたあかねは、それをやめてにこりと笑った。

 

 

「乱馬がここ気に入ったならずっと一緒に住めばいいよ」

 

もちろん住みたい。でもそんなことは可能なのだろうか。

 

「でもおれ、ここの家族じゃないからなー。父ちゃんがまたいつ出ていくかわからないし」

「そっかあ・・・そうだよね」

 

あかねはうーんと腕を組むように考える。

 

 

 

「あ、じゃあさあたしかおねえちゃんと結婚すればずっといられるんじゃない?」

「・・・・・え」

 

とんでもなく大胆な事を言われて乱馬は驚いていたが、あかね本人は全く気が付いていない。

 

「かすみお姉ちゃんはなんかいいなずけがいるんだって。よくわからないけど」

「いいなずけ?なんだそれ?」

 

「親が決めた相手の人が居るんだって。あたしもまだよく知らないの」

「へー」

 

「だから乱馬はなびきおねえちゃんか私と結婚すればきっとずっとここに居られるよ」

 

さらりとそう言ってしまったあかねに乱馬は一人でどぎまぎとする。

 

 

 

「乱馬どっちがいい?」

「え、どっちがいいってそんなのあの、おれが決めていいの」

「よく分からないけど。大人になっても好きな人できなかったらね、私かお姉ちゃんが乱馬と結婚すればいいよ」

 

 

「じゃ、じゃあ・・・ケチななびきよりは、あかねのがいい」

「・・・それお姉ちゃん聞いたら怒るよ」

 

「あ、あかねはそれでいいのかよ・・・」

 

 

妙に心臓がどきどきしていた。

何だろうこの変な落ち着きのない気持ちは。

 

 

「うん、いいよ」

 

あっさり言われ過ぎて驚く。

 

「い・・・いいのか」

「うんだって」

 

 

「乱馬はきっとまたお化けが出たら守ってくれるでしょう?」

「うん。いつでも守ってやるっ」

 

「それならいいよ。私乱馬と結婚しても」

 

 

薄暗い中で全く屈託なく静かに笑うあかねに、どきどきした。

ああ出来るなら、もう一度あかねと手をつなぎたい。

 

けれどそんな勇気はなく、ただ穏やかに眠りに落ちていくあかねの寝顔を眺めていた。

そっと枕もとの照明を消したら、あかねの端整な顔立ちがすぐ間近で青白い月明りに照らされている。

 

 

 

この白い蚊帳の中ですーすーと静かに眠るあかねは、まるで見知らぬ国のお姫様みたいだ。

綺麗だな。柔らかそうな頬っぺたに触れてみたいな。

 

 

そおっと指を伸ばして、優しく指を置いてみた。

 

ひんやりと柔らかい。

いつか自分のお嫁さんになってくれるかもしれない女の子のほっぺた。

 

 

そう思ったら余計にドキドキして、乱馬は頭まですっぽりとタオルケットをかぶると、ごろりと布団の上を転がった。

 

まるで本当の夢の中のような、幸せな夜だった。

 

 

 

黄金色の夕日を反射する真っ白な頬はまだふっくらとしていて、あの時の幼さの余韻も残している。

 

ただ均整の取れた清純な美しさが更に増して、彼女がもう子どもではなく大人に向かっていっている事を感じさせた。

 

胸を越す程に長く伸びた髪は柔らかく毛先が乱れて、妙に艶っぽい。

 

 

ああ、分かっていたのに。

見るんじゃなかった。

 

乱馬は寝入るあかねをしっかりと見てしまった事を後悔した。

 

 

そうして衝動的に、吸い寄せられるように自分の顔があかねの頬に近づいてゆく。

 

 

 

いつか東風でなくても、この頬に自分以外の誰かが唇を落としたりする事があるのだろうか。

 

 

何かがかっと燃え上がって焦げるような気がした。

そんな事は考えたくもないのに。

 

 

そうして結局何も出来ずにあかねから離れる。

 

・・・まだガキの頃のおれの方が勇気があったな。

そんな記憶が鮮明に浮かんで、きゅっと締まる。

 

 

「ん・・・乱馬」

 

 

ふと目をさましたあかねが、薄目のまま自分の姿を捉える。

 

 

「起きたか・・・この裏切り者」

「裏切り者?何それ・・・」

「・・・・・・」

 

 

結婚すればいいって言ったのはおれじゃない、お前の方だ。

とは言えずに軽く睨む。

 

 

「・・・人が必死こいて数式と格闘してんのに、ぐーすか寝やがって」

「ぐーすかなんて寝てないっ。いびきなんてかいてないっ」

 

「昔はぐーすかしてたけどな。寝相悪くて蹴られたし」

「それは昔の話でしょうっ」

 

「今だってしてんじゃねーのか?蹴りとかかけ布団横取りとか」

「しないってば」

「分かんねーだろ。お前寝てんだから」

 

「あそっ!そんなに言うなら、また隣で寝て確かめてみれば?」

 

 

ガタンドタン、と大きな音がして、乱馬は椅子ごと後ろに倒れた。

 

 

「ちょ・・・何してんのよ」

「お、お前がとんでもねー事言うからびっくりしたんだよ、ばかっ」

 

 

「冗談に決まってるでしょ、ばか」

「ったりめーだ、ばかっ」

 

 

 

少し膨れたあかねの頬には、まだあの頃の面影が残されている。

もしかしたら自分はまだ、あの日の夜の夢から覚めていないのではないだろうか。

 

そんな風に思いながら、乱馬はあかねの部屋の天井を眺めていた。

 

 

 

 

終わり。

 


・あとがき・

ここの回は本当に楽しく書けました。や、普段もすごく楽しんで書いてるんですが、たまに苦しい時もw

辛い場面を書くと辛くなるし。特に私のような自己陶酔型は。ずっとここ書いてたいなと思ったくらいですw