ざわめく教室の中で、乱馬は自分を見下ろすあかねに向かってあからさまに不満そうな顔をした。
「え・・・お前がぁ?」
「なによそのあからさまに嫌そうな顔っ」
「だって、お前、料理衝撃的に下・・・」
「ん?」
「・・・や、あの」
「おばさまが夜に留守にするからって直々に頼まれたのよっ」
「おふくろも余計な事を・・・」
「ちょっとどういう意味よっ!そんなに私のお料理食べたくないって言うの?」
そうです、ときっぱり言いたいくらいだ。
あかねがいずもの腕前を全く受け継がずに、料理が劇的に下手なのは乱馬も玄馬も周知の事実なのだが、何故かのどかは自分が都合の付かない日の食事の用意をあかねに頼む。
おかげでその日の早乙女家の食卓は地獄と化す。
「せめて胃薬を・・・」
「あのねっ!人がせっかく好意でっ!もう!!そんなに食べたくないならいいっ!私行かないっ」
「まあ、待て待て。誰も食わねえとは言ってねえだろ」
「でも、嫌なんでしょう?」
「や・・・どっちでもない」
「・・・え?何よそれ」
あかねの激マズ料理を食べるのは嫌だ。
でもあかねが家に来てくれる事は嬉しい。
「と、とにかくだ。分かった。これは勝負だ」
「勝負?」
「おめーがおれに美味いって言わせたらお前の勝ち。おれが不味いって言ったらおれの勝ち」
教科書を両腕で抱きしめたまま、あかねは疑心暗鬼の目を向ける。
「美味しくても不味いって言わないでしょうね?」
「言わねーよっ!そこは信じろよっ」
「だーって乱馬、負けず嫌いだから・・・」
そもそもお前の料理がまずかった場合取り繕う事も出来ないわい、という言葉は何とか飲み込んだ。
「ちゃんと公正に判断するから。まあ親父も居るんだからズルは出来ねえよ。その代わり勝負に勝った方が相手の願い事をひとつ叶える。これでどうだ?」
「分かったわよ。受けてやろうじゃないっ」
よしっと乱馬は内心で思う。
あかねの料理が美味いわけがない。
それならば、自分が勝った場合にあかねに願うのはひとつだけだ。
「じゃあ、一度家に帰ったら乱馬の家行くからね」
「おうっ!望むところだっ」
少しも色気のない幼馴染同士の会話に、周囲もいつもの事だと気にかけていない様子だった。
きっとドキドキと一人鼓動を高めてる事も、誰にも知られていないだろう。
乱馬は何でもない風を装って、窓の外を見る。
もうすぐ秋に向かって行く空は妙に澄んで青を増していた。
その日は突然やってきた。
鋭い刃物が容赦なく振り下ろされたように。
秋晴れの爽やかな風が吹く日に、いずもが死んだ。
当然の様に永遠に続くと思われていた幸福は、突如ぶつ切りされてしまう事もあるのだと幼い二人は思い知る。
あかねや乱馬と同じ年頃の子どもが、車通りの激しい道路に飛び出したのを助けようとした為だった。
いずもが抱きかかえていた子も重症ではあったが何とか一命はとりとめた。
早雲はそれを「不幸中の幸いだ」と自分に向かって泣きながら土下座するその子の両親に、絞り出すように呟いた。
真新しい布団に寝かされ、真っ白な布を顔に掛けられたいずもの姿。
線香から立ち上る物悲しい香り。
葬式の喧騒、色んな人の悲しみや同情。そして涙。
妙な工場のような火葬場の違和感。
そうして喧騒が過ぎた後の、なんとも言えない喪失感を抱えた食卓。
何をどう理解していたのか、記憶もはっきりしないくらい曖昧な場面しか出てこない。
ただとにかくあかねのそばに居続けたことだけは覚えている。
あかねはあんなにも普段、感性豊かで泣き虫なのに、何故かいずもが亡くなってから一度も泣かなかった。
かすみやなびきですらが涙を流し、乱馬も大好きだったおばさんを思い出して目を真っ赤にしてしていた中でも、隣に居たあかねはだけは涙を一粒も見せなかった。
まるでどこかで時が止まってしまったような顔をしているだけだった。
乱馬はそれを感じながら何をどう言っていいのか全く分からずにいた。
ただぼんやりとするあかねの手を引っ張って歩いたり、並んで座ったり。
それ以上の何も思いつかないから、そこだけに懸命に気を配った。
それでもいつまでも、暗い空気が続いていた訳でもなかった。
今となればそれは早雲が一番心を砕いていた部分でもあったのだろう。
三人の娘をいつまでも母の死の悲しみの中に置いてばかりも居られない。
その部分においては、普段全く役に立たないと我が父ながら言い切れる玄馬も一役かったとは思う。
食卓や日常での二人の気の抜けるような馬鹿馬鹿しいやりとりが、何故だか他の者たちを呆れさせながらも和ませたからだ。
そうして少しずつ、時には後退もしながら、皆それぞれにいずもの死を受け入れようとしていた。
天道家が、再び穏やかな日常を取り戻しつつあった年明け。
その日は東京都内だというのに大雪で、正月休みを残していた乱馬とあかねは近くの公園で雪だるまを作って遊んでいた。
「この丸い腹、父ちゃんみてえだな」
乱馬がぱんぱんと雪だるまの腹部を叩くと、それを見たあかねが笑う。
「あれ・・・あれ山田さんちのベスじゃない?」
あかねの見る方を追うと、確かに山田さんちで飼い始めたと聞いた子犬のベスらしき姿が公園の端を駆け抜けていくのが見えた。
首輪は付いているが、近くに山田さんらしき人もいない。
「逃げちゃったんじゃねえか」
「そうかも、追いかけようっ」
言うが早いかあかねは先にベスの消えた方に向かって駆けだしている。
乱馬はまだ雪かきスコップを持ったままだったので、慌てて雪の山にそれを刺して立てると、あかねを追った。
「あかねーっ」
あかねの向かった方の道路に出てみたが、あかねの姿もベスの姿もない。
雪の深さで走り難いが、それでも乱馬は山籠もりで雪慣れしているので全力で走って次の交差点まで来た。
民家のコンクリートの塀の角から交差した次の道路が見えた時、激しい急ブレーキ音が一瞬響いてすぐに止んだ。
道路のど真ん中にベスを抱きかかえたあかねが座り込んでいる。
そこにスリップした車がスピードを更に増してあかねに向かっているのが見えた。
「あかね!!」
コンクリートの塀を駆け上り、上部で大きく反動をつけて必死であかねに向かって飛びつくと、その身体を抱えて回転しようとしたがすれすれで回転しきれず、乱馬は衝突を覚悟した。
あかねにかぶさったままぐっと目を閉じたら、すごい勢いで乱馬の身体を歩道の方へ持っていく力があった。
乱馬とあかねはくっついたまま歩道の方に転がり、雪かきで雪が積みあがった上に突っ込んだ。
「・・・二人とも・・・大丈夫!?」
そこには血の気が引いた顔で二人を覗き込む東風が居た。
「まあ!ベス!!」
山田さんの奥さんがベスの名を呼ぶと、ベスは抱きかかえていたあかねの腕から逃れて奥さんの方へと向かって行く。
「てめえら死にてえのか!!いい加減にしろ!!」
何とかスリップしながら蛇行して止まった運転手が窓を開けて怒鳴る。
「やあ、すみません」
東風と山田さんの奥さんが代わりに謝っているのを、二人は動けもせずにしばらくぽかんと眺めていた。
そうして乱馬は急激に強い怒りに襲われた。
それが何かはよく分からない。
立ち上がったら、両脚ががくがくと震えていた。
あかねはまだ状況が飲み込めていないのか、ぽかんとしたまま雪の上に座り込んでいる。
そのあかねの前に立つと、乱馬は手袋ごしにあかねの頬をバチンと思いっきり叩いた。
「お前まで死ぬ気かばかっ!!」
そう言った瞬間にがくがくと震えている脚が支えきれなくなって、ぺたんと地面に座り込んでしまった。
あかねは目を見開いて乱馬を見ていた。
そうしてぶたれた部分に自分の手をあてて、しばらくぽかんと乱馬を見ていたが、急に込み上げてきたのかみるみるうちに目に涙をためて、大声を張り上げて泣き出した。
謝っていた東風がそれを見て慌てて戻ってくる。
そうしてあかねを助け起こすと、あかねは東風に抱き着いて泣き出した。
東風は泣きじゃくるあかねを宥めるように、背中を優しく叩いている。
「おかあ、さんっ・・・おかあさぁぁぁんっ・・・!!」
その姿を見ていたら何故だか乱馬もこらえきれなくなって、泣き出してしまった。
同時に二人が泣き出してしまったことで東風がおろおろとする。
山田さんの奥さんは、ベスを抱いたまま申し訳なさそうに佇んでいた。
いずもの死以来、あかねが初めて泣いた。
いつまでもいつまでも泣き止まずにいた。
乱馬も顔がぱんぱんに腫れるまで泣いた。
色んな気持ちが押し寄せてきて、それが何なのかよく分からない。
ただ、大事な物を失うという事はとても怖い。
それだけは分かった。はっきりと分かった。
その日以来、乱馬の格闘に対する熱は更に上がった。
失いたくないものは、自分が自分の力でそれ守り通す。
それが自分の使命でもあるかのような気がした。
ある朝、乱馬が父とロードワークから帰ってくると門前を竹箒で掃いていたあかねが、牛乳配達の男性と笑顔で話し込んでいた。
「あの、そいつに何か用ですか?」
乱馬はつっけんどんにその男性に向かって言う。
「え、や、いえ、い、いつもご贔屓にありがとうございます」
男性は少年でありながら自分を威圧するような乱馬の態度に怯みながら、慌てて自転車に乗って立ち去る。
「ごくろうごくろう、のぐ〇ごろう♪」
その後ろ姿に向かって、玄馬が白々しいギャグを言ったのを乱馬は冷えた目で見た。
が、玄馬は一向に気にする気配もなく歌いながら玄関へ向かって行く。
「何だよ?なに話してたんだ?」
乱馬は訊きながらあかねの抱えていた牛乳を半分持つ。
「ありがとう」
あかねににっこりとされて、乱馬は頬を染めた。
「べ、別に。飲みたかっただけだし・・・」
「あのね、乱馬聞いてっ」
あかねはニコニコと嬉しそうに声を弾ませる。
「さっき牛乳配達のお兄さんにね、お母さんに似てるねって言われたんだ」
ああ、そっか。
それであんなに嬉しそうな顔をしていたのか。
ほんの少し牛乳配達のお兄さんに対する罪悪感が湧いた。
「私、お母さんに似てるかな?ねえ乱馬どう思う?」
楽しそうに話すあかねの息が白く空間を彩るのを見ながら、乱馬は言った。
「うん。似てる」
そうして久しぶりに、乱馬はあかねの満面の笑みを見た。
その穏やかな柔らかさからは、確かにいずもの面影を感じた。
二人が出会って二度目の春を迎えようという頃に、のどかが天道家を訪ねてきた。
そこで初めて、乱馬は自分に母親が居たのだと知る。
まだ乱馬に物心の付く前に、これも修行の為という玄馬の強い意志に押し切られ、一度は離れてしまったが、どうしても諦めきれずに早乙女親子の話を訊いて周っていた所で、天道道場に行きついたのだと言う。
「乱馬・・・乱馬なのね・・・」
目に涙を浮かべて自分を見つめるのどかは、確かに自分に似ていた。
そうして母の胸の中にしっかりと抱きしめられて、照れ臭さと喜びが溢れてくる。
けれどその後から、後ろめたさもやってきた。
天道家にはもう母の存在がない。
そして最初に母に限りなく近い存在として認識したいずもが居ない。
それなのに、自分だけこんな気持ちになっていいのだろうか。
ふと見れば、あかねが笑っていた。
何とも言えない表情で。
それがどんな気持ちからだったのか、その時の乱馬には分からなかった。
そうして乱馬にとってはもうひとつ、複雑な出来事が起きた。
のどかが自分と玄馬を、自宅に引き取ると申し出たのだ。
それはあかねと離れて暮らすという事を意味していた。
聞けば自分の自宅は、天道家とは別町内ではあったが、さほど離れてはいないし、学校もそのまま通えそうである事には安心した。
そして実の母と一緒に暮らせるのだから、嬉しくない訳ではない。
けれど乱馬にとって、家族となるとどうしても天道家の賑やかで穏やかな空気を先にイメージしてしまうのだ。
そして何より、あかねと離れる事が淋しかった。
とは言え離れたくない事情は大人たちに言えない。
帰れないと断れば、のどかが悲しむだろう。
永遠の別れではない。
このまま天道道場にも通うつもりでいるし、学校でもあかねと一緒だ。
そんな風に何度も自分に言い聞かせて、乱馬は鬱々としそうな日々を何とかこなした。
出来るだけあかねの傍にいながら。
のどかが迎えに来るという前日に、乱馬は玄馬と共に荷物の整理をした。
リュックに詰めきれない物があるほど、たった一年でもここには思い出がある。
ささやかながら天道家の皆が行ってくれた送別会は、しんみりしないように明るく思い出話を語った。いずもの話題も出されて皆で笑い合う。
そんな中で隣に居たあかねがふと、乱馬に「お母さんと一緒に暮らせて良かったね」と声を掛けた。満面の笑みで。
それを見て急激に淋しさが浮かんできた。
あかねは自分がここから去る事が淋しくないのだろうか。
この一年間、こんなにもずっと一緒に居たのに。
いつも隣で笑い合ったり、喧嘩しあったり、時には思い合ったり。
ショックと意地が混ざって乱馬は少しつっけんどんな言い方をしてしまった。
「べ、別に。おれはどっちだっていいんだ」
あかねは乱馬の言葉に不思議そうな顔をした。
どっちでもいいの意味が分からなかったんだろう。
それならそれでいい。
ここで正直な事なんて到底言えそうにない。
大事に大事にしてきた天道家での時間はあっという間に過ぎて、とうとう寝て起きれば朝にはのどかが迎えにくる夜となった。
玄馬はすっかり酔って激しい鼾をかいて深く眠り込んでいる。
乱馬は懸命に寝付こうとするのだが、なかなか寝付けない。
何度もごろりと寝返りを打っているうちに、襖をポンポンと叩く音がした。
常夜灯のオレンジの明かりの中で乱馬が立ち上がって襖に近づくと、そっと空いた襖の隙間からパジャマ姿のあかねが見えた。
「ど、どうしたの」
乱馬は少し驚きながらあかねを見る。
「今日、乱馬と一緒に寝てもいい?」
自分の枕を抱きかかえながら、あかねは寒い廊下で立っている。
「い、いいけど・・・父ちゃんのいびきすっごいうるさいぞ」
「うん、平気、かどうかは分からないけど、いいよ」
乱馬はどきどきする気持ちを抑えながら、ゆっくりと襖を開ける。
そうしてそっと入ってきたあかねは、乱馬の布団の襖に近い方に自分の枕を置いた。
並んで寝転がると、あかねの方も寒くないようにちゃんと毛布と布団をかけた。
「乱馬のお布団の中・・・あったかい」
「お前の身体が冷えてるんだよ」
腕に触れてみたらひんやりと冷たい。
きっと廊下を歩いてきたせいだ。
乱馬は少しでもあかねを温めたくて、手を握る。
とても冷えてはいたが、小さくて柔らかい手。
「乱馬の手、あったかいね」
「ずっと布団の中に居たからな」
玄馬はあかねがやってきた事にも全く気がつかず、地鳴りのような鼾をかきつづけている。
「おじさまのいびきって本当にすごいね」
「だろー、毎晩これだもんな・・・もう慣れたけどよー」
ふふふと静かに笑う声が聞こえた。なんだかくすぐったいような気分になる。
「・・・ねえ乱馬」
「ん・・・?」
「さっき良かったねって言ったけど、あれね」
「うん」
「あれね、半分ウソ」
「え・・・」
「乱馬がお母さんと一緒に暮らせるのは本当に良かったなって思うけど、もう半分は乱馬がここから出て行っちゃうのが淋しい」
「ほんとに・・・?」
「うん」
こういう気持ちを何と言っていいのか、その時の乱馬にはよく分からなかった。
うっかりすると泣いてしまいそうな笑いだしてしまいそうな、おかしな気持ち。
「・・・おれも淋しい」
「乱馬も・・・?」
「うん・・・すげえ淋しい」
「そっか・・・一緒なんだね」
返事をする代わりに握る手に力を込める。
少しずつ自分の熱で体温を取り戻すその小さな手。
このまま時が止まってしまえばいいんだ。
そうしたら誰も悲しまずに、自分はあかねとずっと一緒に居られる。
けれどそんな事は、魔法や妖術でも使わない限りは無理だろう。
あいにくそのどちらも乱馬には出来ない。
「なあ・・・あかね」
「ん・・・」
「おれ天道家出ても、お前の事はちゃんと守るから」
「・・・・・・」
「お前はほら、色々ドジだしうっかりだしたまにとんでもねーことしでかすし」
「ちょっと・・・言い過ぎっ」
あかねはやはりふぐのようにほっぺたを膨らませる。
「や、だからさ、あかねが危険な目に合わないようにおれが守ってやるから、安心しろって事だ」
あの時だって本当は自分が守ってあげたかった。
まだ自分に力が足りないから、結局東風に助けれたあの日。
「・・・乱馬は、やっぱりヒーローみたいだね」
「おうっ。今からやるか?スペースっ・・・!」
あかねが楽しそうにけたけたと笑う。
「今はいい。もう眠いもん」
「おれはあんま眠くねえ」
「じゃあいつもみたいに、しりとりしながら寝ようか」
「うん、そうしよう」
互いに眠れない夜に、しりとりをし合っていたのは蚊帳で寝ていた頃の名残だ。
あの何も空虚のない幸せが詰まりきった時間はもうやっては来ない。
それでも二人はそれを口に出さずにただ淡々としりとりを繰り返した。
どちらかが眠りに落ちるまで。
結局、遅くまでしりとりが続いたせいか、二人は日が高く昇りかけても寝たままでいた。
お迎えに来たのどかが襖を開くと、そこには寝相の悪さで布団の上に寝乱れた幼い二人が居て、それでもしっかりと手を握っているのを見た。
それを見た時に、一緒に暮らそうと申し出たのどかに懸命に笑顔を見せて嬉しい振りを頑張っていた乱馬の不自然さを理解した。
「可愛らしいロミオとジュリエットだったのね・・・」
しっかりとあかねの手を握っていたのは乱馬の方だった。
外に出ると花散らしの雨が降っていた。
桜雨とも呼ぶのだという事を、乱馬は珍しく知っていた。
それはいずもから教わった言葉だ。
桜が咲き乱れるこの時期に降る雨の事を意味するのだという。
天道家の皆に挨拶をしてのどかに手を引かれながら、乱馬は何度も何度も後ろを振り返った。
楽しかった天道家での日々。とても美味しくて暖かいごはん。まるで本当の母親だったようないずも。賑やかな家族たち。あかね。
あかねは精いっぱいの笑顔で、乱馬に向かって手を振っていた。
乱馬は何度も何度も振り返り、姿が見えなくなるまでそれを繰り返した。
そうしてただ静かな雨の降る中で、のどかの柔らかい手に引かれながら住宅街を歩き続ける。
そこかしこで咲き乱れている桜の花弁は、雨の中だと淋しく泣きぬれているように見えた。
「じゃあ乱馬、お母さんちょっと出かけるから、あかねちゃんが来たらよろしくね」
「へいへい」
のどかを見送るように玄関に向かった乱馬に、のどかはにこりと笑ってから、すぱんっと勢いをつけるように背中を叩いた。
「な、なんだよ」
「頑張りなさいよ、乱馬っ」
「な、何が・・・?」
のどかは意味ありげにふふふと笑うと、草履を履いた。
「じゃあ行って来るから後をよろしくね」
「ああ、了解」
そうしてふとのどかが背中を向けた時、乱馬は言った。
「おふくろ、気をつけてな」
振り返ったのどかが幸せそうに笑う。
「ありがとう。いってきます」
のどかが出かける時、乱馬は必ずと言っていいほど自分にそう声を掛けるのだ。
きっとそれは、いずもの事があったからだろうと察している。
そして乱馬はきっとあかねに好意を抱き続けている。
あの小さな手をしっかりと握っていた頃から。
それはあの家で乱馬の一年が幸せだった事を表していた。
色々な理由をつけてあかねを自宅に招くのは、乱馬の思いが成就する事を願っての母なりの気遣いと、二人を引き離してしまった後ろめたさからだった。
そして二人は気が付いてはいないが、周囲は二人がそうなればいいのにという願いをどこかで持っている。自分も含めて。
ただこればかりは、ふたりの気持ちと縁に任せるしかなかった。
「ごめんください」
あかねが早乙女家を訪れた時、家に居たのは乱馬だけだった。
「おー、あかね。まあ上がれ」
「あれ・・・おじさまは?」
「あ、あいつね、逃げた」
「逃げた?」
「書き置きがあった」
そう言って乱馬があかねに広告の裏の落書きのようなものを見せる。
『当分修行の旅に出ます、探さないで下さい。玄馬』
「・・・もうっおじさまは」
まあ身を守るという意味では懸命な判断であると乱馬は思うが口には出さない。
「という訳でおれ一人になっちゃったけど、勝負はちゃんと公正にするから安心しろ」
そう言いながら乱馬は、茶の間に向かって行った。
「お邪魔します」
あかねは脱いだ靴を片手で揃えて端に置くと、風呂敷に包んだ重箱を抱えて茶の間に向かった。
あかねは二段重ねの重箱をちゃぶ台の中心に置くと、のどかの用意してくれているお茶を入れた。
「じゃあ、開けるぞ・・・!!」
ぱっと重箱の上蓋を開くと、そこにはごま塩を振っただけの白飯が詰め込まれていた。
「・・・ん?」
「メインはこっちよ」
あかねは重なった白飯の上段を手に取るとそれを隣に並べる。
二段目の重箱から出てきたのは、卵焼きだった。卵焼きがびっしりと重箱に詰まってる。
「なーんでい。おかずこれだけかよっ」
「いいでしょっ!今回は見た目より質を重視したのよっ」
むっとしたあかねは、乱馬の方へ乱暴にだんっと茶の入った湯呑を置く。
「卵焼きはお醤油ちゃんと掛けて食べてね」
「へいへい・・・」
乱馬はあかねの料理を目の前にすると、どうしてもこれまでの地獄の数々の思い出が蘇ってきてしまう為に、受け皿に卵焼きを置いてもなかなか食指が動かない。
ゆっくりとそこに醤油をさらっとかけて、まるで茶道のお茶碗のように上から横から回して観察をする。
「・・・ちょっと!なんのつもりよ」
「・・・や、あの見た目チェック」
「あのねっ別に毒なんか入ってないんだからねっ!」
すっかり気を悪くしているあかねは、不機嫌そうにお茶を飲む。
「わ、わーってるよ、じゃあ行くぞっ・・・勝負!」
乱馬は恐る恐るその卵焼きを箸で掴むとばくっと思いっきり口の中に放り込む。
ぐっと目を閉じて、少し俯き加減に咀嚼する乱馬をあかねは祈るように口元に両手を当てて見守っている。
「・・・・・・」
乱馬はぐっと目を閉じたまま咀嚼をただ繰り返している。
「・・・ねえ?どう?」
「・・・・・・」
待ちきれずにあかねが尋ねる言葉にも無言だ。
「・・・美味しくなかった?」
心配になったあかねが乱馬の顔を覗き込んで、びくりと身を揺らす。
「乱馬・・・?」
「お前・・・反則だ・・・これは反則だ・・・」
乱馬はぼろぼろと涙を流していた。
それはいずもの卵焼きだった。
少し甘味が強くて、何処かに出汁の風味もある幾重にも丁寧に重ねられた卵焼き。
それは乱馬の大好物で、いずもは乱馬のお弁当には必ずそれを入れてくれた。
小さなあかねとふたりで、台所のテーブルに背伸びして自分たちのお弁当箱がいずもの手によって美味しそうなおかずで埋め尽くされていく、幸せな場面を思い出す。
のりや卵焼きや色んな匂いがわくわくとさせて、いずもの笑顔がくすぐったくて。
あかねの持ってきた卵焼きはあのいずもの卵焼きと全く同じものだった。
もういずもは居ないのに、いずもの味がする。
そう思ったら色々な事が溢れて来て、乱馬はぼろぼろと涙を流す事しか出来なくなった。
あかねは静かにそれを見ている。
「・・・これ・・・ほんとにお前が?」
「・・・そうよ。これだけは・・・お母さんが亡くなる前に習ってたの」
「そか・・・すげえ・・・完璧におばさんの味だ・・・」
乱馬は大粒の涙を流しながら、それ以上何も言えなくなった。
懸命に涙を飲み込み続けていたら、ちゃぶ台の上の乱馬の拳の上にあかねの手が重なった。
柔らかくて温かい。生きている証のする手。
そう思うと余計に涙が止まらなくなる。
あかねはゆっくりと乱馬の二の腕に自分の頭を預けて寄り添った。
「・・・おれ・・・おばさん・・・好きだった」
「・・・うん」
「・・・ほんとの・・・母ちゃん・・・思ってた」
「・・・うん」
出てくる言葉は涙に押し上げられて変な発音で。
そのうちあかねの鼻を啜りあげる音も聞こえてきて、ただ二人でしばらくじっと寄り添っていた。
今まで、こんなにも泣いた事はなかったかもしれない。
もう涙が出ないという所まで泣き果てて、ようやく乱馬は口を開いた。
「悔しいけど、おれの負けだな・・・美味かった」
自分が勝ったら「おれと付き合ってくれ」と言うつもりだった。
けれどこのタイミングでこんなご馳走を持ってこられるなんて。
複雑ではあるが、負けは負けとして認めるしかない。
「お前の願い事、なんでもひとつ叶えてやるよ」
乱馬がそう言うと、二の腕に寄り添っていたあかねが頭を上げて乱馬を見る。
目が真っ赤に腫れてはいるが、それでも美しい顔が間近にある事に乱馬はどきりとする。
「それなんだけど・・・」
「う、うん」
「ずっとね、もし勝ったらって考えてたんだけど・・・特にお願い事がなかったの」
なんだよそれ。
おれはありすぎるくらいあって厳選した中での願いだったのに。
あかねはおれに何も望んでないのか。
がっかりと気が抜けるのとが同時にやってくるが、それを顔に出すわけにも行かない。
「だからね、保留でいい?」
「保留?」
「そう。私に乱馬へのお願い事が見つかるまで保留」
「・・・いいけど。保証期間一年間だからな」
「えーっ、何それ。期間なんてあるの?」
「あるに決まってんだろ」
二人にいつもの軽口の空気が戻ってきた。
それは乱馬にとって楽しくもあり、少し残念でもあるが。
むぅっと不満げに唇を突き出すあかねが可愛くて思わずぷっと吹き出した。
「なによ?」
「別にぃ・・・ま、いいよ。おばさんの卵焼きだから特別だ保証期間五年にしといてやる」
「すごいサービスね」
「当社は他店より手厚いアフターサービスが売りです」
そうして二人見合って笑った。
とても静かで穏やかな夜だった。
終わり。
・あとがき・
原作が崩壊・・・はとっくにしておりますか。すみません。原作は実際はもちろんもっと長い時間が費やされているのだけれど、一応原作の設定としては乱馬とあかねは16才のまま。例えばあれが一年の出来事だったとしたら、幼馴染として出会った二人は相当に深く、相当にこじれているような気がして、遠回りしてはいますがご不快でなければ最後まで見届けて頂けたら嬉しいです。