月とベランダ


 

 

 

団子が夕飯後の食卓に出てくるまで全く気が付かなかった。

 

 

「今日は中秋の名月よ」

 

 

にっこりと笑うかすみねーちゃんの言葉に、縁側で煙草を吹かしていたおじさんがほうっと柔らかい煙を吐く。

 

 

「そうだったなぁ。確かに今夜の月はそう名乗るに相応しいね。風流、風流」

 

「あらホント、綺麗~」

 

早速、団子をひとつ頬張りながらなびきが縁側から空を見上げている。

 

「おやじっ!!てめえ一人のもんじゃねーだろっ!!おれにも寄こせっ!!」

「ぱふぉ!!」

 

食卓で団子をスナックのように頬張ってゆくパンダ親父と格闘していると、おふくろがぽつりと呟いた。

 

「あら、乱馬。あかねちゃんは?」

「さあ?知らん。宿題でもやってんじゃねーのか」

 

「それならあかねの分のお団子、お部屋に持っていってあげてくれる?」

 

かすみねーちゃんに頼まれると何故か「はい」としか言えない。

 

 

おれは素直に受け取った盆にお茶と取り分けた団子を乗せて片手でバランス良く持ちながら、二階へ向かった。

 

 

 

あかねの部屋の前に立って声を掛ける。

 

「おーい、入るぞ」

 

ガチャリとドアを開けたが、部屋の中は真っ暗でしんとしていた。

部屋の中には気配がない。

 

「あれ・・・・・・」

 

だとしたらどこだ?

と考えを巡らせようとした時に、空気の流れがいつもと違う事に気が付いた。

 

 

 

ほんの少しだけ空いていた古いガラス戸を開けると、ベランダに小さく丸まって座るあかね。

 

その背中は本当に小さくて、一瞬子どものように見間違えてしまう。

 

 

「こんなとこいたのかよ」

 

「惜しかったね乱馬。もう少し早く来れば綺麗な満月が見えたのに」

 

 

ベランダから覗き込んで見上げれば、風に押し流されていく長い雲に月が隠されている所だった。

 

 

「・・・こんなに風があるんだ。放っておけばまた顔出すだろ」

 

 

あかねの隣りに座ると、前に盆を置く。

 

「かすみねーちゃんが、あかねに持ってってやれって」

 

ふふふ、とあかねが笑う。

 

「なんだよ?」

「さっきの言い方・・・何か良いなあと思って」

 

 

「な、何が」

 

 

雲で陰っている月の仄かな明かりの下に居るあかねに見つめられて、少し息が詰まる。

宵闇の中でも、大きな瞳が湖面の様に潤んで綺麗だ。

 

 

 

「放っておけばまた顔を出すだろ、って言い方。何か、好き」

 

 

 

最後の言葉とふっと笑んだ顔にまんまと心臓を射抜かれて、全部がフリーズする。

 

顔だけ妙に熱くなっていくのをどうにかしたいが、どうにも出来なくて、何とか誤魔化そうとした結果、おれは団子を鷲掴み頬張った。

 

 

「あっ・・・それあたしのお団子でしょ」

 

 

不満げに抗議するあかねはもういつものあかねで、ほっとしたようながっかりしたような。

とにかく団子は一気に食うと喋れない。

 

 

「ふぁやひものはちふぁ」

「早いもの勝ちって、乱馬のじゃないでしょう」

 

 

すげえなあかね。

よく分かったなと思ったが、まだ団子は喉を通り切らない。

 

緊張で一気食いしてしまった後ろめたさはあるから、ひとつだけ皿の上に残っていた団子を摘まむとあかねに向かって差し出した。

 

 

少し口を尖らせていたあかねが、それでも素直に口を開く。

開いた唇に向かってぽいっと団子を放り込むと、あかねは片方の頬っぺたを膨らませてもぐもぐとしている。

 

 

 

あ、なんか可愛い。ヒナ鳥みてえ。

もう一個あげたかったけど、もう皿の上に団子はない。

 

 

あかねは、団子の甘さにとろけるような顔をして目を閉じている。

ほんの一寸前にヒナの様に思っていたものが、今度は急に艶っぽく見えて最後の団子が喉に詰まる。

 

そしておれは勝手にあかねのお茶をぐいっと一気に飲み干した。

 

 

 

「あ、ちょっと・・・」

「・・・っは、おれを殺す気かお前はっ」

 

 

「え・・・何の話?」

 

 

そりゃそうだ。そう言われて当然だ。

でも最近のあかねは、おれからすると何だか狡い。

 

 

無邪気に幼く見えた事に密かにほのぼのとしていたら、次の瞬間には急に色っぽく大人びて見えてドキリとさせられる。

 

 

それにおれに対する警戒心がまるでない。

近くに座る事も、互いの顔の距離が近い事も、当たり前みたいに許容されている。

 

何だったらあかねの風呂上がりの髪の甘い匂いだって風と一緒に感じるくらいの距離に居られる。

 

 

そうして近い事を許されている空気を感じてしまうと、実際に更に寄って行ってしまいそうにな自分が居る。

 

 

今だって僅かに肩が触れ合ってるのに、あかねは全然気にしていないようだ。

 

これは男としては、大変喜ばしい事でもあり苦行でもある訳で。

そもそもどっちに取っていいのか分からない。

 

 

 

「なかなか出てこないね、お月様」

 

 

 

そんな事はまるで気が付かないらしいあかねは、空を見上げてのんびりとした口調で呟く。

 

人がこの至近距離にどぎまぎしながら、どこかで鼻息荒くなりそうなのを必死で抑えているのに、何呑気に月の事なんか眺めてんだと、腹立たしくなる。

 

ついでにまさかこいつどの男にもこんなに無防備なんじゃねえだろうな、と心配にもなってくる。

 

 

 

そもそもあかねは鈍い質だ。

男の下心なんて襲われる寸前まで気が付かないのじゃないか。

 

なんて悶々と考えていたら、急にぶるっと寒気がしてくしゃみが出た。

 

 

それに気が付いたあかねがおれの方を見る。

そうしてふとこちらに白い指先を伸ばしてきた。

 

おれは思わずびっくりし過ぎてひと席分飛びのいてしまう。

 

 

 

「ななななな、何だよっ」

「乱馬・・・髪ちゃんと乾かしてないでしょ。首元の髪が湿ってる」

 

 

なんだ、そんな事か。

ほっとしたような、がっかりしたような。

 

 

「昼間暑かったからな。油断した」

 

しかも風呂上がりに暑かったから、タンクトップを着ずに直接チャイナ服だけ着たのを思い出す。

 

「無理しないでお家入ったら?この空気の中にずっとそれで居たら流石に風邪ひくわよ」

 

 

 

それはそれで惜しい気もする。

というか正直に言えば凄く惜しい。

せっかくあかねがこんなに近くに居るのに。

 

 

「・・・あかねは寒くねえのかよ」

「私は大丈夫。ほら・・・」

 

 

薄いブランケットを身体に巻きつけて居たあかねは、ぴらりとそれを捲って見せた。

その下には厚手のカーディガン、巻きスカートの丈も長くて暖かそうだ。

 

「めちゃくちゃ防寒対策してんじゃねえか」

「そうよ。冷えたら風邪ひいちゃうもの」

 

 

「・・・なんか、お前ばっか狡い」

 

ここで使うのは間違ってる。そう思ったけど口から出ていた。

そもそも何の狡いなんだろう。正直自分でも、よく分からない。

 

 

 

あかねはしばらくぽかんとしていた。

怒らせちまったかな。

 

 

 

「・・・そんなに満月見たかったの?」

 

 

・・・ちげーーーーーーーしっっ。

相変わらずだな、その鈍さ。

 

 

ふう、と思わずため息が出る。

 

 

 

 

「それなら・・・一緒に使う?」

 

 

 

そう言ったあかねは、さっきと同じように自分に巻き付けていたブランケットをぴらりと捲って広げて見せた。

 

 

・・・そ、それはあれか。

つまりそういう事でいいんだな。うん、そうだ。

 

 

「・・・なーんて――」

「うん、入るっ」

 

 

同時に重なった声であかねがなんと言ったのか聞こえなかった。

ただそこに入りたいという気持ちだけが自分を急かしてそそくさと入る。

 

どさくさに紛れてブランケットを一度あかねから剥がして自分がそれを纏うと、そのまま後ろからあかねをブランケット毎包む。

 

 

「え、え・・・?」

「な、何だよ。一緒に使う?って言ったのおめーだろ」

 

 

自分で言ったくせにあかねはおれの行動に戸惑っていた。

まあ・・・ちょっと都合よく解釈し過ぎたかも、しれない。

 

 

「・・・そ、う?」

「そ、そうだろ」

 

「・・・そっか」

 

 

何だかぎくしゃくしているのは感じるが、とりあえずはこうしている事を許されたと思っていいんだろう。

 

許された、と思った途端に色んな五感の感覚が急激に研ぎ澄まされていくような気がした。

 

 

柔らかい、温かい、小さい、ふんわりと香る甘さ。

頬に当たるサラサラの毛先。

目の端にぼんやりと見える白くて華奢なうなじ。

 

思わず後ろから回した腕に力が籠りそうになる。

実際、籠っていたのかもしれないが、もうなんか頭がくらくらとしてよく分からない。

 

何の為にここに居るのかすっかり忘れかかっていた時に、あかねの声がした。

 

 

 

 

「乱馬・・・お月様出てきたね」

 

 

 

 

ああ、そうだった。

見上げれば大きな白い満月が、風に流された雲をくぐって顔を出している。

 

 

 

それは澄んでとても綺麗だった。

ある瞬間のあかねみたいに。

 

 

 

 

そして突然、振り下ろされたように落ちてきた恐ろしい記憶の断片。

 

 

 

金蛇環に素手で触れたあかねが一瞬にして消えた瞬間。

 

ただおれを助ける為に。何の迷いもなく。

 

 

 

 

「・・・乱馬?寒い?」

 

 

 

そうじゃない。

寒さから震えている訳じゃない。

 

けれどそれは声にならない。

 

 

 

あの瞬間、常に自分を照らし続けていたものを失ったと思った。

 

 

 

もしも世界から光が消えたら。

もうどうしようもない。

 

 

生きようがない。

 

 

暗闇の中でただ息絶えるのを待つしかない。

 

 

 

あれ以来、たまにこの記憶が降り落ちてくる時がある。

 

そうすると、あかねの生を確認するまで落ち着かないし眠れない。

 

 

 

 

「・・・乱馬?」

 

 

 

 

暗闇の底から一点の光が差すように、あかねがおれの名前を呼んだ。

 

 

 

ああ、そうだ。

 

 

 

あかねは柔らかくて、温かくて、いい匂いがして、ちゃんと喋ってる。

まだちゃんと生きている。

 

 

消えてしまったと思っていた月が、風に吹かれた雲からまた出てくるように。

 

 

 

その震えを抑えるように、あかねがおれの腕をさすり始めた。

滑らかで温かい指の感触が優しい。

 

 

 

「・・・なあ、あかね」

「・・・ん?」

「キスした、い」

 

 

 

そう呟いてから自覚した。

自分の声を詰まらせたのは、涙だ。

 

 

あかねは腕をさする手をゆっくりと止めて、手首の所できゅっと力を籠める。

 

 

 

「・・・いいよ」

 

 

 

あかねの返事を最後に、全ての音が遠のいていくような気がした。

 

 

ゆっくりとこちらを向く時に流れる髪の隙間から見えた綺麗な横顔。

 

おれの両手に簡単にすっぽりと収まってしまう柔らかい頬。

 

小さな唇の柔らかさと吐息の温かさ。

 

ただ夢中で熱に浮かされたように、酔いしれて貪る。

 

 

 

そうして自分がどれだけ身勝手なのかを思い知る。

 

 

 

 

今腕の中にあるこの小さな温かいもの。

自分を静かに照らし続けていてくれるもの。

 

 

それだけがあれば、もう自分はこの世界の何も必要がない。

あとはもう全て、放ってしまっても構わない。

 

 

 

それだけばあれば、自分は生きていける。

 

 

 

そうだ。

 

自分は身勝手で残酷だと知りながらこの先ものうのうと生きて行こう。

 

一緒に。

 

 

 

 

終わり。


・あとがき・

中秋の名月の日の夜に満月を眺めながらふと浮かびそうだった物をそのまま文章にして、日付を超えてしまったけどpixivに掲載した季節小説です。ちゃんとした乱馬視点は、これが初めてのような気がします。