夏桜・前編


 

 

 

 

「かすみおねーちゃんの許嫁って・・・東風先生だったんだって」

 

 

 

 

その時、静かだった水面に波が立ったように見えた。

仰向けのまま水面に浮いて上を向いていた乱馬には、その言葉が半分聞こえて半分聞こえなかった。

 

プールの底に足を付いて、立ち上がる。

 

 

「許嫁ってなんだ?」

 

「親同士が決めるの。かすみおねーちゃんと東風先生は、大人になったら結婚するって約束なんだって」

 

 

濡れた前髪を後ろに撫でた額まで出たあかねの横顔は、まだ12才の少女であるのに端整であるのを強調させていた。

乱馬はただそれに見惚れながら、ぼんやりと理解する。

 

 

かすみねーちゃんと東風先生がいつか結婚するらしいという事。

それにあかねがショックを受けたんだろうという事。

 

 

「ねえ、乱馬」

 

 

 

こちらを向いた時のその顔は、今でも鮮明に覚えている。

多分そうやって、自分の記憶の中には幾つもの「あかね」が存在しているのだ。

 

 

 

 

放課後の教室はあっという間に人影が消える。

部活のある者は部活へ、部活のないものはさっさと学校を出て解放されたいからだ。

そんな静まりかえった一年F組の教室に二人は居た。

 

 

「もーお・・・ほんっとに・・・」

 

 

あかねは机に肘をついて開いた日直日誌を睨んでいる。

乱馬はあかねの隣の席で同じように肘をついてあかねの方を見ている。

 

 

「たまには乱馬が自分で考えなさいよ」

「だーって、おれ文章考えると目が回ってくんだよ」

 

「なんでゆかに任せなかったの?ゆかも今日の日直でしょう」

「そーなんだけどさ」

「『あかねに書かせるからいい』とか私に断りもなく勝手に約束してるし」

 

 

「ゆか日直の事忘れて予定入れちまったって言うし。お前だってそういう時頼まれたら断れねータイプだろ」

 

長いさらさらの髪から覗く横顔は端整だ。

けれど乱馬の言葉にむっとしたその美しい唇は尖って崩れた。

 

そんな無防備な表情の変化もこの席のこの位置なら、あかねに気が付かれずにじっくりと見ることが出来る。

そしてこの距離なら、自分の心臓が高鳴っている事もバレずに済む。

 

 

 

なんて正直に言ったら、あかねはどんな顔をするんだろう。

 

 

 

きっと困るんだろうな。

そして傷つくんだろうな。

自分がおれの期待に添えない事に。

 

 

身体の奥がきゅっと締め付けられる気がして、乱馬は一瞬だけ口元を歪めた。

 

 

 

「ほんっとに乱馬は女の子には甘いんだから」

「は?おれがいつ・・・」

「最近、モテるからって調子に乗ってるんじゃない?」

 

そこであかねは乱馬を見た。

少し呆れたような瞳で。

 

 

ああ、こっちを向いてくれた。

急にこっち向くんじゃねえよ。

 

喜びと恥ずかしさが同時に降ってきて、ただ身動きが出来ない。

 

 

「最近乱馬、他のクラスの女子に頻繁に呼び出しされてるんでしょう?」

「あ、あれは、なんか部活の助っ人がどうこうとか言われて・・・」

 

 

あかねの瞳から呆れの色が消えて、ただ真っ直ぐになる。

 

 

本人が意識しているのかどうかは分からないが、その目をされると自分の心の奥まで覗かれているような気がして、言い訳も出なくなってしまう。

 

 

「・・・嘘つき」

「・・・え?」

 

 

「乱馬が色んなクラスの子に告白されてるのは、女子ならみんな知ってるよ」

 

 

あかねに知られると面倒な事になると思っていた。

きっと余計な気を回されて、あかねは自分から離れていくだろう。

 

だからそういう事は昔から隠し続けてきた。

あかねが鈍い性格であったのも助かった。

 

 

けれどこの年齢にもなってくると、そういう女子内での噂は加速して広がるようだ。

 

 

 

「・・・へー、そーかそーか。とうとうあかねにも気が付かれちまったか。いやあ参った参った!おれって強いしスタイルいいし顔も良いからな~。やー、そらモテるなって方が無理だろ。フハハハハ」

 

 

あえてお調子者のふざけたトーンで笑って見せる。

乱馬は頭の後ろで手を組んで踏ん反り返る姿勢になった。

 

 

「それはモテて嬉しいって事?」

 

「そらまあ、悪い気はしねーよな。おれだって男だ」

 

 

それは嘘ではなかった。

実際、同年代の女子にモテる事に悪い気はしない。

 

 

 

「そっか、そうだよね」

 

あかねは日誌を書きながら、そう呟いた。

そうしてそのまま、しばらく沈黙が続く。

 

日誌を綴る鉛筆の音を訊きながら、乱馬は早く話題を逸らそうと考えていた。

 

こんな時のあかねが、どんな風に考えるかは分かっている。

 

 

「なあ」

「・・・・・・」

 

「なあ、あかね」

「・・・・・・」

 

「うっちゃんとこの店の近所に甘味屋出来たの知ってっか?あんみつにトッピング色々出来るらしいぞ、今度・・・」

「行かない・・・」

「あそ・・・」

 

「ねえ乱馬・・・」

「じゃあお前が行きたがってた動物園、今度みんなで行かねえか?うっちゃんと良牙も呼んで・・・」

 

 

「乱馬」

 

 

人が必死に逸らそうとしているのに、全く逸れない空気を纏ったあかねがまっすぐに乱馬を見る。

 

 

 

「もし乱馬に好きな女の子が出来たら、嘘つかないで私にちゃんと言ってね」

 

 

 

その表情は怒っても悲しんでもいない。

とても落ち着き払っていた。

 

 

それは乱馬を逆上させた。

 

 

 

 

「そうしたら私、乱馬とちゃんと距離置くから」

 

 

 

ぱたりと鉛筆を置いて、あかねは日誌を乱馬の机の上に置く。

 

 

「書けたわよ。ちゃんと乱馬の字に似せておいたから・・・じゃあ私帰るね」

 

 

 

「・・・んだよ、それ・・・」

 

 

 

ふと思い出す。

 

春にあかねの髪に付いていた桜の花弁。

 

それを取ってやったら、あかねは一度手のひらでそれを受け止めた。

 

けれどすぐにそれはあかねの指先から散らされて、地面の中の沢山の花びらに交じって存在を無くした。

 

 

まるで今の自分のようだ。

そう思ったら、何かがかっと燃え上がる。

 

 

バンッ!!!!

あかねが通り過ぎようとしていたドアの前の掃除用具のロッカーを思い切り殴って、ぐにゃりと金属製のロッカーが変形する。

 

 

「何なんだよそれ!!」

 

 

 

あかねは肩をびくりとさせて、遮るように伸びたその腕に抗議するように乱馬を見た。

 

 

「お前にとっておれは・・・そんなに簡単な存在なのか?」

 

「・・・どういう事?」

 

「そんなに簡単に、お前はおれから離れられるのかって訊いてんだ」

 

 

あかねは真っ直ぐに乱馬を見ている。

静かに澄んだ瞳で。

 

 

こんなにも乱れている自分と、自分をただ冷静に見るあかね。

それはまるで対称的だ。

 

 

いつから自分は、こんなにもあかねの心を揺らさない存在になって居たのだろうか。

 

 

 

「離れようなんて思ってない。距離を置くだけよ。乱馬に好きな女の子が出来た時に、今みたいに私が隣りに居たら邪魔になるから」

 

「おれの隣りって何なんだよ?ただの電車の座席みたいなもんなのかよ?お前はそんなに簡単におれの隣りを誰かに譲れるもんなのか」

 

「私は、乱馬の幼馴染だから、もし乱馬に恋人が出来たらそこは譲らないと」

 

「だからお前が何勝手に決めてんだよ!!人の存在を簡単に散らすみたいに言うんじゃねえ!!」

 

「・・・乱馬・・・どうしたの?」

 

 

 

「じゃあ東風先生を好きなお前は、なんでおれをそのまま隣りに居させるんだ?淋しいからか?おれは先生の代わりか?」

 

 

あかねはそこで初めて悲し気に瞳を歪めた。

自分の事では崩れない表情が、東風の名では簡単に崩れてしまうのか。

 

 

 

どこまで残酷なんだ。お前は。

 

 

 

怒りが消えて行く代わりに、やってきたのはどうしようもない悲しさだった。

 

 

 

「・・・ただの幼馴染って言い出したのはおれじゃない・・・お前だ」

 

 

ゆっくりと自分を壁際に追い詰めて行く乱馬の目の変化。

そちらの方に気を取られていたあかねは、自分の後頭部が壁に付いた事も自覚していなかった。

 

ただ距離の近さに怯えて咄嗟に右手をかざす。

けれど乱馬はその手首をしっかりと剥がして、あかねに口づけた。

 

 

 

静寂を取り戻す教室。

遠くから僅かに響いているのは雨音だった。

 

どこかに雫が溜まってぽたりと落ちるような音まで聞こえてくるような気がした。

それ以外は、唇に触れる熱がただ柔らかいという事だけを感覚が拾っている。

 

 

ゆっくりと顔を離した乱馬は、噛み締めるように呟いた。

 

 

 

「おれは・・・あかねを・・・ただの幼馴染だなんて思った事はねえ」

 

 

 

少しふらついたようにあかねから離れた乱馬は、ガラリとドアを開けて教室を出て行った。

しばらく呆然としていたあかねは、滑るように力を無くしてその場に座り込んだ。

 

 

 

その翌日から、あかねは熱を出した。

雨が降っていたのに、傘も差さずに歩いて帰宅したせいだ。

身体は熱でだるかったが、おかげで乱馬と会わずに済むと思えば少し気が楽だった。

 

 

熱の朦朧とする中で、浮かんでくるのは幼い乱馬との記憶。

 

 

乱馬が差し出した手をあかねは握る。

夏の蒸し暑さに汗ばんだ、まだ細いけれど固い男の子の手。

 

 

 

私は忘れてなんかいない。覚えてるよ。

ちゃんと覚えてるよ。色んな事。

 

私にとって何よりも大事だったその手。

 

だからそんな悲しい顔しないで。

 

 

 

 

 

それは自分に口づけた後の乱馬の顔だった。

 

 

 

 

『約束、守れなくてごめんね』

 

 

 

 

目が覚めた時、開いた瞳から涙が溢れて零れた。

 

 

 

部屋のドアが静かにノックされてかすみが顔を出す。

 

 

「あかね。具合はどう?」

「うん・・・もう大丈夫。今日は学校に行く」

 

 

 

乱馬と会ったら、なんて話そう。

 

いつもみたいに、何事もないように軽口を言う?

それとも。

 

 

 

どちらの結論も出ないまま、辿り着いた教室に乱馬は居なかった。

そしてあかねを見つけたゆかが駆け寄ってくる。

 

 

「あ!おはよあかね!ちょっと、こっち」

 

 

腕を引っ張られて教室の窓際の隅に連れて行かれる。

 

「ねえあかね。乱馬くんなんで学校来ないの?」

「・・・え?」

 

「あれ・・・もしかしてあかねも知らない?」

「・・・うん」

 

「・・・あのさ、日直の日誌あかねに変わって貰った日・・・あの時乱馬くんと何かあった?」

 

何もないと言っても不自然だろうなと思う。

掃除用具のロッカーは直しようもないくらい変形していた。

 

「ちょっと、乱馬を怒らせちゃって。喧嘩した」

「・・・そなんだ」

 

「あの、乱馬はいつから来てないの?」

「その次の日からだから、三日前」

 

 

「・・・そうなんだ」

「なんか、ごめんね。私が日直急に変わってもらったから・・・」

「え、違うわよ。全然違う理由で喧嘩したの。バッチバチの」

「そなの?」

 

「そうよ。いつもの事」

 

 

何でもない様に笑う。

けれど乱馬はそのまま学校に姿を現さなかった。

 

 

 

「ごめんなさいね、あかねちゃん。せっかく来てくれたのに」

「いいえ・・・でも、おばさまに書置きしていたならよかったです」

 

 

懸命に笑顔を作ってのどかに向ける。

本当は申し訳なくて仕方がないのはこちらの方だ。

 

 

のどかの話ではあの日直の翌日の朝に『しばらく留守にします。心配無用』という書置きを残して、乱馬は家から姿を消したらしい。

 

 

これ以上、自分に出来る事がなくなってあかねは息を詰めた。

 

 

 

 

 

 

「乱ちゃん多分、しばらく帰ってこんで」

「・・・え?」

 

「うちとこにな、居なくなる前に来てん」

「・・・そうなの?」

 

 

鉄板の上でじりじりと焼けるお好み焼きに目線を落としたままでいるあかねに、右京は訊いた。

 

 

「あかねちゃん、今ショック受けたんやないか?」

 

「・・・なんで?」

 

 

「それとも先生の事で頭が一杯で、乱ちゃんの事はどうでもええか」

 

 

「・・・・・・」

 

 

頃合いを見てお好み焼きをひっくり返した右京は、あかねをちらりと見て苦笑いする。

 

 

「今のはな、うちの嫌味や。怒ってもええねんで」

 

 

あかねはそこで顔を上げて右京に、ふっと笑った。

 

「そういう事正直に言われたら、怒れない」

 

 

「あかねちゃんはたまに、自分の本音と違う事しよるからな。自分で自分を痛めつけるより、人にはっきり痛めつけられた方が楽やろ」

 

 

「・・・・・・」

 

 

右京は、ソースを塗り青のりとかつお節をふりかけて出来立てのお好み焼きをあえて鉄板から外して皿に移した。

それをあかねの前に置く。

 

 

「乱ちゃんからの伝言や『そのうち戻るから心配無用』」

「・・・うん」

 

「あかねちゃんがもしここに来て乱ちゃんの話題出したら、そう伝えてくれ言うてたわ」

「そっか・・・」

 

 

 

「あんたらはほんま、周りくどいな」

 

 

ふふふとあかねが笑う。

 

 

「ほんとだね」

 

 

「まあ、涙乾いたらゆっくり食べえや。うち他の仕事してくる」

 

「・・・うん、ありがと右京」

 

 

「ほんまやで。今度チラシ配り山っほどしてもらうからなっ」

 

 

「うん、がんばる」

 

 

ふっと笑った右京はあかねの頭をぽんぽんと優しく撫でてから、厨房へ消えて行った。

 

 

 

 

乱馬が姿を消してから、二週間が過ぎようとしていた頃だった。

その日の朝方、急にかすみに揺り起こされてあかねは目を覚ました。

 

 

「あかね、道場に来てくれる?」

 

 

「ん・・・どうしたのお姉ちゃん」

 

 

時計を見たら、まだ5時半だ。

 

 

「乱馬くんが来てるの。東風先生も居るわ」

 

 

それを聞いただけで意識がはっきりとする。

あかねは慌てて着替えると、道場に急いだ。

 

 

 

道場に辿り着くと、乱馬と東風は向かい合って正座をしていた。

早雲がその二人の間を取る位置に居る。

 

 

ああ、これは。

二人は本気で勝負をするんだと理解した。

 

 

あかねとかすみは、道場の隅に並んで正座をする。

 

自分に一瞥をくれた乱馬は、もう最後に会った日の面影の欠片もなく強い目をしていた。

 

頬は少しこけて見えたが、やつれている訳ではない。

髪は乱れては居たが、身体は日に焼けて一部の隙もない程に引き締まっていた。

 

 

乱馬は本気で勝とうとしているんだ。

東風に。

 

 

膝の上でぎゅっと握った拳が震える。

自分はこれを最後まで絶対に見届けなければならない。

 

さっきの乱馬の強い目が、自分に向かってそう訴えていた。

 

 

 

 

 

勝負の前にこれ程静かな気持ちでいるのは初めてだ。

乱馬はあの日の水面の静かな揺れを思い出している。

 

 

夜のプールを照らすライトに水面が反射して、青と黒が静かに混ざる。

 

 

 

小学校六年生の夏休み。お盆の頃だった。

あかねと誰にも内緒の計画を立てていた。

 

 

小学校の旧校舎の家庭科準備室にある三面鏡をお盆の時期、深夜0時丁度に覗くと、もう亡くなってしまった会いたい人に会えるという学校の七不思議。

 

 

あかねは以前からどうしてもそれを一度やりたいと言い続けていたのだ。

あんなにも肝試しで怯えるあかねが、だ。

 

 

 

あかねが誰に会いたいのかは、訊かなくても分かっている。

 

 

 

学校の校舎に忍び込むことなんて、二人には簡単な事だった。

ただずっと乱馬が渋り続けていたのは、別の理由があったからだ。

 

 

 

それでも小学校最後の夏休みに二人はそれを実行に移した。

互いに時間を合わせて、家族には寝たふりを装って、それぞれが家を抜け出す。

 

 

グラウンドの端の外灯から少し外れた鉄棒の所に、寄りかかっていたあかねは、白いノースリーブの綺麗なワンピースを着ていた。

 

あの頃もう伸ばし始めていた髪は首の中間の所くらいまでに伸びていて、もう一瞬でも少年に見間違えようもない程、あかねは女らしくなっていた。

 

 

「乱馬、もう来ないのかと思った」

「わ、わり・・・親父が酒飲んでてなっかなか寝付かなくて」

 

 

 

「行こう」

 

見惚れている暇もなく、促されて並んで歩く。

遠くの外灯がグラウンドに二人の影を映す。

 

 

校舎の中では、持ち込んだ懐中電灯を照らしながら二人でゆっくりと歩いた。

窓を閉め切った中で蒸し暑さも籠っていて、一瞬で汗ばむ。

 

懐中電灯を持ってはいても、それ以外の明るさのない校舎の中は十分に不気味だ。

 

それでもあかねは乱馬のTシャツの端を掴んで、何とか乱馬の歩調に付いて行こうとしていた。

 

 

以前は簡単に握れていた手を、今は簡単に握る事が出来ない。

乱馬はTシャツにかかるあかねの力に出来るだけ合わせて歩く。

 

いつもよりも長く感じた家庭科準備室までの道のりだったが、無事に辿り着いたのは23時52分だった。

 

酔った玄馬の腕時計をこっそり拝借してきた乱馬は、ぶかぶかなその腕時計を懐中電灯で照らして、時間を確認する。

 

 

狭い家庭科準備室の角に置かれたままになっている木製の古い三面鏡は、ピアノに掛けられているような織物の古いカバーにしっかりと覆われていて、まだ鏡の部分を見る事は出来ない。

 

 

「あかね・・・本当にこれ、一人だけで見れるか?」

「・・・見るよ。じゃないと会えないから」

 

 

一人きりで三面鏡を覗く。

それが条件だった。

 

 

「・・・分かった」

 

 

あかねが怖くないように、乱馬はぎりぎりまで家庭科準備室に一緒に居る。

時計が57分を示した頃に、腕時計と懐中電灯をあかねに渡して乱馬は廊下に出た。

 

 

そうして準備室のドアの前で、両ひざを立てて座ると窓の外を見る。

 

 

少しずつ暗闇に慣れて行く目は校舎の長い廊下のワックスの跡まで見えるようになってきた。

 

それを目で追っている時に準備室から僅かにかたんと静かな音がして、乱馬は思わずあかねの名を呼ぼうとして止める。

 

 

きっと今、丁度その時間の頃だ。

それに準備室の中からあかねの気配はちゃんとしている。

 

 

何でもいいから頼む、あかねを会わせてやってくれ。

強く強く何かに願った。

 

今日だけ目に見えない全部を信じるから、あかねを会わせてやってくれ。

 

 

 

 

どのくらい経ったか分からない。

感覚だからもっと短かったのか長かったのか。

 

 

 

ガラリと準備室のドアが開いて、乱馬は立ち上がる。

あかねを見るとただ俯いたまま、こちらを見ようともしない。

 

 

それで訊かなくても分かった。結果は。

 

心底がっかりとした顔をしているあかねは、乱馬を深く抉る。

 

 

だからずっと来るのを渋っていたのだ。

叶わなかった時のあかねを見るのが辛かったから。

 

けれど最後の夏休みに乱馬は思った。

たとえそうなったとしても、あかねのしたいようにしてあげたい。

 

 

 

「あたし・・・馬鹿みたいだね・・・七不思議なんか本気にして」

「・・・全然馬鹿なんかじゃねえよ」

 

 

こんなにも強く願っている事には、なんの邪気もない。

ただ一目だけでも会いたいという強くて悲しい願いも、神様は叶えてくれないのか。

 

 

 

それなら神様って一体何の為に居るんだ?

 

 

 

乱馬は苛立った。

ポケットから出したビー玉を思い切り三面鏡に向かって投げつける。

 

バリバリと張り付く雷の様な音がして、鏡は見事にひび割れる。

 

 

「乱馬・・・!?」

 

驚いているあかねに向かって乱馬は手を差し出した。

 

「行こう、あかね」

 

あかねは一瞬の間をおいて、それでも乱馬の差し出した手をぎゅっと握りしめた。

乱馬もその柔らかさを握り返して、あかねをそこから連れ出そうと歩く。

 

 

「ねえ乱馬・・・鏡壊しちゃったら呪われたりとか・・・」

 

「上等だ、呪えるもんなら呪ってみろってんだ。あんなインチキ鏡!」

 

「・・・インチキ鏡」

 

「そうだろ。あんなもん、いっそ処分された方がいい。インチキなんだから」

 

 

 

後ろの方でふっと息を吐く音が聞こえた。

 

「そうだね、インチキだもんね」

 

あかねが笑ったんだと気づく。

それだけで、今自分はここに居る意味があるような気がした。

 

 

 

 

「あかね、泳ぎ方教えてやる」

 

 

乱馬がそう言ったのは、旧校舎から抜け出した時だった。

 

 

「え?今から?」

「そうだよ」

「真夜中だよ?」

 

「だから誰も居なくて泳ぎやすいだろ」

「水着は?」

 

「なくても泳げるだろ。足もつくし」

「でも・・・」

 

「前から入ってみたかったんだ。夜のプール。面白そうだろ」

 

 

乱馬はあかねを見てにかっと笑う。

久しぶりに握ったあかねの手をすぐに離して、この夜を終わらせてしまうのが惜しかった。

 

 

 

更衣室の前にある防犯用のライトが点灯して、その光を頼りに二人は服のままプールの中に入る。

 

水が怖いあかねは、乱馬の両手をしっかりと握ったまま、ただ固まっていた。

 

 

「そのままゆっくり沈んで、頭の天辺まで水につかってから立ってみろ」

 

 

言われた通りあかねはゆっくりと沈んで頭の天辺まで水につかった。

 

 

けれどその水圧でもうパニックになってしまったのか、急に乱馬の手を放してがぼがぼと水中でもがぎ出したので、乱馬は慌ててあかねの身体を掴んで引き上げようとした。

 

 

その時に何か柔らかいものがぐにゃりと乱馬の腕に当たった。

 

 

「きゃあ!」と叫んだあかねがバチンと乱馬の頬をビンタして、乱馬もその後ゆっくりとそれが何だったのかを理解する。

 

 

 

「ごごごご、ごめん!!わざとじゃ・・・」

 

 

もうそこからあかねに近づけなくなった。

あかねは何とか立ち上がって胸を両腕で抑えて真っ赤になっている。

 

 

「・・・わ、わかってる。びっくりしただけ」

 

 

気まずい沈黙が流れて、乱馬はどうしていいか分からなくなった。

 

 

「・・・おれちょっと泳いでくる」

 

 

あかねはコースロープの浮きに掴まったままそんな乱馬を見ていた。

折り返して折り返して軽く100メートルを泳いで頭も体も冷やす。

 

 

「凄いね乱馬」

 

一気に100メートルを泳ぎ切った乱馬を見て、あかねは尊敬の眼差しを乱馬に向ける。

 

 

「こ、これくらいなら大したことねえよ」

 

 

と言いながらも恥ずかしくて、乱馬は水中に潜ってぐるりと一回転するとそのまま仰向けになって水面に浮かんだ。

 

耳が水に遮られて、その境でゆっくりと音を変える。

 

そうしてあかねの言葉が聞こえたり聞こえなかったりする中で、喋り出したあかねの声が通ったり籠ったりしてぶつ切りに聞こえた。

 

 

そこで「許嫁」という言葉を拾った乱馬は、立ち上がってあかねにそれを訊く。

 

 

東風先生とかすみがいつか結婚をする。

あかねはきっとそれにショックを受けている。

 

 

青と黒が混ざる暗い水面を防犯ライトが照らして、その反射であかね白い横顔は余計に透き通って見えた。

 

 

「ねえ乱馬」

 

 

 

深くて美しい瞳が真っ直ぐに自分を見た。

 

 

 

「人魚姫ってね。大好きな王子様を殺せなくて、最後は海の泡になっちゃうんだよ」

 

 

 

 

その大好きな王子って誰なんだ?

もしあかねにとってのそれが自分ではなく、東風なら?

 

 

 

急激に大人びて美しく見えた一瞬の顔は、まだそのまま深く乱馬に焼き付いていた。

 

 

 

 

 

「では二人とも、準備はいいかね」

 

 

早雲の落ち着いた声が道場に響いて、乱馬は東風と共にすっと立ち上がり深く一礼をする。

 

 

ゆっくりと自分を揺らすあの日の水面の中に立っているような気分で、乱馬は東風の前に居た。

 

 

 

「始めっ!!」

 

 

 

人魚姫が泡になって消えてしまう前に、全て決着をつける。

ただそれだけの事だ。

 

 

 

 

 

 

終わり。


・あとがき・

プールの場面は某名作映画よりイメージだけをお借りしました。アニメの方は見ていないけれど実写は大好きで、サントラまで持っています。その監督の本も色々読んでいたし色んな面で影響を受けたように思います。