乱馬の構えは、今まで見たこともないようなものだった。
まるで何かに揺らめいているように身を任せているように、全身の力が抜けている。
静の東風の流儀にも似た、それでいてまるで違う物のようにも見える。
「あ、あかねちゃん・・・どうなってる?」
ものの数秒で二人の動きに視界が追いつなくなったかすみが、心配そうにあかねに縋る。
あかねも二人の動きを追うのに必死で、なかなか言葉が出せない。
誰よりも人体の動きを把握している東風を惑わせるような動きと攻撃を乱馬は仕掛けていた。
今までの乱馬ならば絶対的なスピードとパワーで東風を追い詰めようとしていたが、どの関節やどの屈折で次にどんな攻撃がくるかをほぼ完璧に把握している東風にはどうしても先を読まれてしまうのだ。
けれども今の乱馬の動きには法則が全くない。
何かに身を任せるように脱力している中で、ふらついたまままるでハプニングの様に転ぶような形で蹴りが出て、それが簡単に東風を捉えた。
「先生、当てられた・・・」
あかねの呟きにかすみが縮こまるようにぎゅっと重心をかけてくる。
そうなっても仕方ない。
これほど東風に緊張感のある戦いを仕掛けられた者がこれまで居なかったからだ。
しかも当てられた一発が見えるより重く入っているようで、東風は一瞬ふらついた。
その隙を全く逃さずに二発目の攻撃が更に当たる。
が、東風もそれを予測したのか相打ちで乱馬の頬が切れるのが見えた。
けれどまともに攻撃を受けたのは東風の方で、あかねは息を詰める。
かすみにそれを伝える事が出来なかった。
「ふ・・・面白いね乱馬くん。宮本武蔵か・・・」
そう呟いた東風の動きが急激に変わって、乱馬の動きに順応し始めた。
最初圧倒的に乱馬の方が優勢だったその勝負は急に転じてしまったように、乱馬の方に東風の攻撃が次々と入る。
東風が優勢の時間は長かった。
優に二十分は一方的な状態で、乱馬は痛々しい程にまともに攻撃を受け続けている。
それでも元来の打たれ強さで、何とか立っているような状態だ。
現時点では乱馬が明らかに劣勢であり、もう一方的に痛めつけられているようにしか見えない。その時点で止めても良さそうなものなのに、何故か早雲は試合を止めようとはせずに居た。
ダメ押しの様にこれまで見たことがない程のスピードで懐に入り込んだ東風の掌底打ちが乱馬の左肩を直撃するのを見て、あかねが短い悲鳴をあげる。
「乱馬っ!!」
左腕が力なく下がるのを見て肩を外されてしまった事が分かる。
圧倒的に不利になった状態で、抉るように腹に思い切り拳を入れられ乱馬が崩れるように床にうずくまった。
更に畳みかけて次の攻撃を仕掛けようとする東風を見てあかねは叫んでいた。
「先生!!もう止めてっ!!」
けれど乱馬は何故か床に突っ伏したまま、ニヤリと口角を上げた。
肘を曲げて急所を狙い乱馬の意識を突き落としにかかった東風を、乱馬は床を滑るようにかわし、その肘に自分の足をかけて東風の攻撃の強さを自分の動きの力に変えてしまった。
肘を床にめり込ませる東風の反動で立ち上がった乱馬は、その反対の腕を右腕で取り捻り上げて反対側に蹴り折る寸前で止める。
ほんの一瞬の勝機を逃さなかったのは、乱馬の方だった。
「止めっ!!・・・勝者、早乙女乱馬」
早雲の声が道場に響いて、戦いは終わりを告げる。
あかねは慌てて乱馬に駆け寄ると、ふらつく乱馬の胸に自分の身を入れて支えた。
血と汗の匂いが混じって湿った乱馬の全身がようやく緊張を和らげる。
「あかね・・・勝った・・・」
「うん」
「おれ・・・先生に勝ったぞ」
「うん・・・手当しよ・・・肩冷や、さなくちゃ」
涙が喉に詰まって上手く話せない。
「やぁ・・・参ったよ、乱馬くん」
見ればかすみに支えられて座り込んだ東風が、何とも言えない表情で笑っていた。
「正直こんなに早く、越えられるとは・・・完敗だ」
「おれが強くなれたのは・・・先生のおかげです」
「・・・・・・」
「ありがとうございました」
深々と頭を下げる乱馬を支えながら、あかねは遠い記憶を蘇らせていた。
小学生最後の夏休み。乱馬と二人で過ごした真夜中のプール。
そこで人魚姫の話をしたあかねに、乱馬は言った。
「・・・なんだよその辛気臭い話。おれはそんな話大っ嫌いだ」
きっぱりと切り捨てられて、あかねは思わずふっと笑う。
「おれがそこに居たら、人魚姫が泡になる前に絶対に助ける。絶対にそんな事させない」
乱馬は真顔でそう言った。冗談でも例えでもない。
本気でそう思っているんだと分かる。
「・・・すごく乱馬らしいね」
あの瞬間の乱馬の刺さるような真っ直ぐな瞳も、繋いだ手が以前より固いと感じたことも、気が付いたら話す時に乱馬を少し見上げるようになっていた事も。
気を緩めたら流れ込んで来てしまう。とても深い所に。
どれも色褪せずに鮮明に。
あかねはそれを振り切るように、乱馬を壁に寄りかからせると駆けだした。
東風は自分も肘を痛めているのに、乱馬の左肩をきちんと入れてくれた。
自分の為にきっと手当の準備をしに行っているであろうあかね、そこで何かを発する事を遠慮したのであろう早雲の姿がない中で、かすみに支えられている東風が乱馬に言った。
「きみを強くしたのは、ぼくじゃない。あかねちゃんだろう?」
ぐうの音も出ない事を言われて、乱馬は表情を崩す。
「これはこの間一本取られた時の仕返しだ」
東風はニヤリと笑って、かすみと寄り添って道場を出て行った。
二人のその後ろ姿は誰がどう入ろうと、もう揺らがないであろう事を感じさせる。
あいつはあの姿を見てもまだ、東風先生を好きなのか?
だとしたらそれはどんなに苦しい事なんだろう。
突き進めば大事な人を傷つける。そんな事はきっとあいつにはけして出来ない。
もしかしたら。
その苦しさから逃れたくて、人魚姫は泡になる事を選んだのだろうか。
そんな風に思っていた時に、あかねがアイシングと救急箱を持って道場に駆け込んできた。
壁に寄りかかっている乱馬の姿に怯えたような顔をして慌てて乱馬の近くに救急箱を置く。
「大袈裟なんだよお前は・・・さっき先生にちゃんと肩も入れて貰った」
乱馬はボロボロと涙を零しながら、必死に救急箱から湿布薬やテーピングを探し出しているあかねを見て笑った。
「何笑ってんのよ、ばか」
「その涙・・・おれの為?」
あかねはそれに返事はせずにアイシングを乱馬の左肩に当てる。
柔らかく包まれたタオルにじんわりと伝わってくる氷の冷たさが、痛みを少しずつ遠ざける。
あかねはその間も、泣きじゃくっていた。
久しぶりに自分に対して感情を見せたあかねの涙は、乱馬を切なく締め付ける。
「ごめん・・・あかね」
「・・・・・・」
「もう泣くな・・・ごめん」
「・・・心配ばっかかけ、て・・・急にどっ、か行っちゃ、うし」
「・・・うん」
「帰ってき、たら・・・こんなこ、とになってるし」
「どうしても今勝ちたかったんだ。先生に」
「・・・ばか」
自分の左肩を懸命に冷やしながら泣いているあかねを、乱馬は右腕で自分の方へ抱き寄せた。
すっぽりと自分の胸の中に収まってしまう程の小ささが愛おしい。
「あかね・・・好きだ」
乱馬の言葉が道場に響いた瞬間に、あかねはアイシングを床に落とした。
氷を包んでいたビニールとタオルが解けて、道場の床に氷の粒が散乱する。
腕の中で小さくもがく抵抗も遮って、乱馬はあかねを抱きしめ続けた。
「お前がまだ先生を好きなのは知ってる。でもおれはあかねが好きだ」
「・・・・・・」
「だからもう・・・ただの幼馴染なんて言われるのは嫌だ」
乱馬はそこでようやくあかねを抱きしめる腕の力を緩めた。
まだ泣き顔のまま、動揺した表情のあかねを覗き込んで見る。
「おれの事、ちゃんと男として見てくれ」
長い睫毛が涙でぐしゃぐしゃになっているのに、赤く涙の跡を残してその白い頬も腫れぼったくなっているのに、それですら愛おしい。
あかねの全てがどうしようもなく愛おしい。
乱馬は涙で濡れたあかねの顔に張り付く髪を丁寧に指でどかして、親指で流れ続ける涙を拭くと、そのままあかねに口づける。
落ち着きなく瞬きが繰り返される睫毛と怯えて震える唇の感触を静めるように、乱馬はその小さな唇を舌で柔らかく解すように舐めてそっと僅かな隙間にそれを差し入れた。
びくりと驚くあかねの身体が小さく跳ねて、乱馬の胸を手で押し返して自分から離そうとしたが、乱馬はそれに抵抗しながらあかねの隙間に侵入して唇を開かせ、小さく柔らかい舌を捉えて絡まるように蠢く。
逃げようとする舌を捕まえて、懸命に吸い付きそれを包み込んで溶かす。
自分の唇や舌から伝わってくるあかねの柔らかさや熱に夢中になって貪っているうちに、あかねの抵抗は少しずつ弱弱しくなり最後には消えた。
何度も繰り返し唇の角度を変えて味わうそのなまめかしい湿った感触が、これまでずっと眺めるばかりで焦がれてきたあかねの小さな唇の中なんだと自覚すると、強い悦びが背筋から立ち上り気が遠のきそうになる。
そうして酸欠のようになった乱馬が漸く口を離した。
その時、僅かに離れたあかねの唇から漏れたのは甘く震えた吐息だった。
「あ、かね・・・?」
驚いて表情を探ろうと顔を離した時、左頬を思い切りビンタされた。
「・・・ってえ・・・」
咎めるようにあかねの顔を見た乱馬が言葉を無くす。
あかねは口を両手で抑えて耳まで真っ赤になっていた。
そうしていても、呼吸が乱れて瞳が甘く潤んでいるのは分かる。
「・・・あの・・・あか――」
「いや・・・!わ、私は乱馬と幼馴染じゃなくなるのはいや・・・!!」
そう言ったあかねは、乱馬の胸を両腕で押しのけると怯えたような顔をして道場から出て行ってしまった。
ただ一人取り残された乱馬は呆けている。
おれ・・・フラれたのか?
けれどたとえ強引でも長い口づけをした後のあかねのあの表情の意味は?
何とも思わない男に口づけられて、あいつはあんな顔をするだろうか。
ただ幼馴染でなくなるのが嫌だと彼女は言った。
それは自分とは恋愛関係になりたくはないという事なんだろうか。
それでもはっきりと断られた訳ではまだない。
気落ちしない訳ではないが、始めから不利なのは覚悟の上だ。
目を閉じれば、美しい青の中にまるで身を投げるかの様に沈んでいく人魚の姿。
沢山の水泡がその身体を包んで行こうとするのに向かって、乱馬は手を伸ばす。
自分が欲しいものはずっとただひとつだ。
ここで簡単に諦められるものだったなら、今自分はここでこうしていない。
「まだ終わりじゃねえ・・・よな」
誰にともなく一人ごちて、乱馬は道場の天井を水面であるかのように見上げていた。
その日の夜。
自分がどうやってベッドの中までちゃんと辿り着いたのか、あかねには殆ど記憶がなかった。
日常ごとの色々をこなしている間も全てどこかで上の空で、けれどそのどれをも家族に怪訝に思われることもなかった。
何故なら皆、道場で行われた真剣試合の事を知っていたからだ。
おかげで自分の上の空も、その試合を見学したショックでと気遣われていたんだろう。
味をちゃんと感じられないままの食事を終えて、食器を片付けに行こうとしたあかねに縁側で煙草を吹かしていた早雲がぽつりと呟いた。
「それにしても・・・乱馬くんには驚かされたよ」
「え・・・」
「正直、途中で試合を止めようと何度か思ったが・・・絶対にまだ止めるなという気迫が伝わってきてね。あの形勢から本気で勝ちに行く気だと分かったんだ」
「・・・そうだったの」
「彼はもっと強くなるね。きっと強くなりたい理由を明確に持っているんだろう」
「・・・・・・」
ベッドの上でタオルケットに包まった時に試合を終えた後の乱馬の言葉が、表情が、自分を翻弄した唇や舌の感覚が次々と鮮明に浮かんで来て、鼓動が落ち着きなく高鳴っていく。
それをかき消そうとして、何度か寝返りを打ち枕に顔を押し付ける。
そうして無理やり酸欠にして思考を止めようとした中でも、自分を好きだと言った時の切実な乱馬の瞳の全てが鮮明に思い出せてしまった。
もう無理なんだ。
気が付かない振りは。
そうして指先が小刻みに震えるのを摩った。
こんなにも怖いのに、私は失うかもしれない覚悟をしなければならない。
中学二年の時のバスケットボール大会。
あかねと右京の女子チームは順調に勝ち進んで、見事に女子チームで決勝戦も勝ち抜いた。
その後は同じクラスの男子チームの試合を応援する為に、体育館のギャラリーに右京と並んで居たら、急にそこに乱馬が現れた。
「何してるの?もう試合始まっちゃうよ?」
「ああ、うん。あのさ・・・」
乱馬は何だか照れ臭そうに後ろ髪をわさわさと手のひらで乱しながら、あかねに向かって手を出した。
「ハチマキなくしちまったから、貸してくれ」
「ええ?ドジねえ。それなら別チームの良牙くんに頼めばよかったのに」
「お前ら優勝したんだろ。そのハチマキのが縁起いーだろ」
そう言われればそうなのかと、特に深く考えもせずに額に付けていたハチマキを外すと乱馬に渡す。
ハチマキの端っこには「天道」と小さく名前が書いてある。
それを見た乱馬が口元を嬉しそうに緩めたのを見て、きゅうっと胸が詰まった。
「さんきゅ。お前らしっかりおれの事応援しろよ」
右京とあかねに向かって言った乱馬は、そのままギャラリーを走り抜けて行った。
「あれきっとわざと失くしたんやで・・・あかねちゃんのハチマキ欲しかったんやな」
ぼそりと右京に呟かれてドキリとした。
「まさか、偶然でしょ」
右京に笑いかけようとして、あかねはそれを寸止めした。
ギャラリーの手すりに肘を付いている右京の横顔がとても淋しそうだったからだ。
・・・もしかして右京。
そこで気が付いた事が気のせいではない事を確信したのは、バスケの試合が始まってからだった。
あかねは右京に気が付かれないように、切なげな横顔の彼女の目線の先を追っていた。
その先に居たのはどの場面でも誰がボールを持ってもずっと乱馬だった。
・・・ああ、そうだったんだ。
今更気が付くだなんて。自分の鈍さが本当に憎いと思う。
そしてコートの中で縦横無尽に動き回って活躍している乱馬を見る。
均整の取れた身体はその丈を伸ばして、今ではあかねはすっかり見上げる側で。
日に焼けている二の腕はいつのまにかとても逞しく引き締まっていた。
もう乱馬は男の子じゃなくて、男性なんだ。
こんなにも美しくなった右京に想いを寄せられるくらいに。
その時に自分が持った感情を、あかねは今でも許せない。
乱馬を誰にも取られたくない。
例え大好きな友達の右京にでも。
その残酷な程に正直な気持ちは、自分を深く傷つけた。
なんて都合のいい願望なんだろう。
自分はのうのうと別の男性に片思いをしているのに、一方で乱馬を誰にも取られたくないと思っているんだ。
その時ゴールを決めた乱馬が、振り返って真っ直ぐにこちらを見た。
嬉しそうに笑って拳を上げる乱馬。
とても眩しくて、とても痛い。
精一杯の笑顔で拳を突き上げる右京の横顔。
私は最低だ。
右京。
東風先生。
乱馬。
誰も失いたくない。
中学の卒業式。
ふと見れば無くなっていた乱馬の第二ボタン。
それは誰にあげたの?
どうして私に何も言わないの?
どうして私はそれにどこかで傷ついているの?
狡いよね。最低だよね。
みんなが大好きで誰も失いたくないなんて。
そんなの狡いよね。
だけどこれが本当の私なんだ。
あの日以来、自分との深い話を避けるあかねに乱馬は何も言わずに居た。
それでも一定の距離を保ちながら二人は並んでいる。
あかねに訊きたい事は沢山あった。
けれどあかねと自分の間はまるで硝子を隔てている様だ。
ずっとあかねの隣りを歩いて来た。
彼女の変化は誰よりも敏感に入り込んでくる。
この硝子はいつか割らなければならない。
それがどちらかからは分からない。
でもあかねがそのままでいようとするならば、割るのは自分だ。
そんな風に淡々と時間が過ぎていく中で暑さが本格的になった頃、夏休みはやってきた。
「んで?夏休み中そうやってうじうじ悩んでるつもりなんか?」
「うじうじって・・・うっちゃんきっついな」
乱馬はお好み焼き屋のカウンター席に突っ伏して、右京を視線だけで見上げる。
「幼馴染でなくなるのは嫌って言われたなら、さっさとその理由訊いてこんかい」
「そうなんだけどよぅ・・・」
右京は苛立ちをお好み焼きのひっくり返しに込める。
ビタンッと見事にひっくり返ったお好み焼きは乱馬の顔を直撃する。
「・・・・・・」
「イライラしてもうて、手元が狂ったわ」
「・・・わざとだろ」
「それくらい避けれんか。格闘家やろ」
乱馬は無言で直撃したお好み焼きをぼとりと鉄板の上に落とした。
焦げ目が付いてる方だったからまだ顔への被害は少ない。
滅茶苦茶熱かったけど。
右京は自分の事が本当に好きだったんだろうかと疑いたくなる程、ビシビシと言葉の鞭を入れてくる。
けれどこういう時の辛辣な右京は、本当に相手を思いやっている時だ。
自分はこういう時の右京が好きだった。
そしてきっとあかねも同じだろう。
「うっちゃん、一回だけ思いっきり本音言ってもいいか?」
「一回だけやで。二回言うたらまたお好みボンバー直撃すんで」
「わかった・・・」
ふーっと長い溜息をついた乱馬は力を抜いた。
「おれ・・・あかねにフラれるのめちゃくちゃ怖え」
「正直やな」
「好きな奴に自分を拒絶されるかもしれないって、こんな怖えんだな」
その時また乱馬の顔にお好み焼きが直撃した。
「おれ・・・同じこと二回言ったか?」
「怖いって二回言うとったで」
「・・・それくらいまけろよ」
「今更それ分かったんか。いい気味やわ」
そう言われて、自分は正に右京を完全に拒絶した側だったと思い出す。
「けどそこ越えていかんとな。本気なら」
そうか。あの時の右京も今の自分と同じような気持ちだったんだ。
そして右京はそれを越えて自分に本当の気持ちを打ち明けてくれたのか。
そう思ったらじわりと涙が出て来た。
お好み焼きのおかげで分からなくてよかった。
「・・・そうだな。さんきゅー、うっちゃん」
「三枚目焼くけど全部買い取りやで」
ぶっと吹き出した乱馬の息で、半焼けのお好み焼きが捲れた。
それを見て右京が愉快そうに笑った。
容赦なく時の過ぎていく夏休みの迎え盆を過ぎた頃だった。
早乙女家の黒電話が重たく甲高く鳴り響き、自室で転がるように扇風機に当たっていた乱馬はのどかに呼び出される。
「乱馬、なびきちゃんから電話よ」
あかねではなくなびきから?
時計を見れば22時半を過ぎた頃だった。
「乱馬くん、あかねが今どこに居るか知らない?」
声を潜めたなびきの声は珍しく不安そうだった。
「や、知らねえけどなんかあったのか」
「それがさっき借りてた洋服返しに部屋行ったらさ、部屋に居なかったのよ」
「風呂でも入ってんじゃねえのか。それか道場とか」
「庭から全部見たけど居なかったの。あと玄関にあかねのサンダルがなかった」
「・・・分かった。思い当たるとこ探してみる」
「よろしくね。無駄に心配掛けたくないからお父さんたちには言ってないの」
「ああ、絶対見つけるから大丈夫」
そう告げると乱馬は受話器を置いた。
「あかねちゃん、どうかした?」
心配そうに訊ねるのどかの向こうで、横になってテレビを見ながら尻を掻いている玄馬がぼそりと呟いた。
「おお、あかねちゃんと言えば乱馬。今日早乙女くんからめでたい話を聞いたんだった」
「なんだよ」
「東風くんとかすみちゃんの結婚が正式に決まったそうだ」
「まあそれはおめでたいわね!」
乱馬はそれを訊いた途端に立ち上がる。
両手を合わせて喜んでいたのどかは怪訝そうに乱馬を見上げる。
「乱馬どこに行くの?」
「ちょっと、出てくる」
「こんな時間よ?」
「走り込んでくるだけだ。すぐ戻る」
ばたばたとせわしなく廊下を駆け抜けて玄関を出て行く息子の背中を見送って、のどかは小さく呟いた。
「乱馬っファイトよっ」
「・・・我が子ながら分かり易過ぎるわあやつは。ありゃ博打うちには向かんな」
呆れたように言いながらも、玄馬は愉快そうにニヤリとしたのをのどかは見逃さなかった。
夜の蒸し暑さは闇も湿らせて纏わりついてくるようだ。
小学校の深夜のプールは、まるであの日のまま時を止めてしまったかの様に存在していた。
防犯ライトに照らされた長く美しい髪が、夜風にさらさらと流されている。
薄い水色のワンピースから伸びる華奢な二の腕はどこまでも白く発光してる様だ。
そのままプールの淵に座って膝から下だけを水に浸らせているあかねは、岩場で束の間の休息を取る人魚のようにも見えた。
「・・・どうしてここに居るって分かったの?」
「おれがお前の事分かんねえ事なんてあったか?」
「・・・なかった。これまでずっと」
それはまるでこの先は分からないというようにも聞こえる。
「で、こんなとこで何してんだ?」
綺麗な脚で水面で叩き、パシャリと水音を立てたあかねにゆっくりと歩み寄る。
「・・・頭冷やしに来た」
「頭まで浸かってねーじゃん」
「きっと一人でそれしたら、私溺れちゃうかなと思って困ってた」
ふっと声を出さずに笑った乱馬が、服のままプールに飛び込む。
「きゃあっ」
その激しいしぶきを受けたあかねは、一瞬にして全身を濡らす。
「いきなり何するのよ、ばか」
「頭冷やしたかったんだろ?」
ずぶ濡れになった顔から水を払うように自分を撫でつけるあかねを愉快そうに笑った乱馬が手を差し出す。
あかねは一間、それを何とも言えないような表情で見つめる。
そしてゆっくりとその手に自分の手を重ねた。
しっかりと握った小さな手を乱馬は自分の方へ優しく引き寄せる。
引き寄せられてプールの中で立ったあかねのもうひとつの方の手も取る。
「・・・また七不思議の鏡のとこ行ってるのかと少し思ってたぜ」
ふふふと小さくあかねが笑う。
「それは流石にもう。だってインチキ鏡なんでしょう?」
じんわりと込みあげて来た懐かしさと喜び。
あかねもまだちゃんと覚えていてくれていたのか、あの日を。
あの時深く感じていた水深が今では腰まで届かない程だ。
自分の両手を握って立つあかねも、もう隙がないくらいに美しく成長している。
「頭冷やしたいんだろ?手伝ってやるよ」
「何よそれ。沈める気?」
「逆だ、ばか」
軽口が心地よくて二人で笑む。
あの日のように身体をかがめてゆっくりと頭まで沈んだあかねは、そのまま数秒を水の中で耐えていた。
「おお、パニくらねえじゃねえか」
と乱馬が感動したのも束の間で、その直後に急に凄い力で両手がバシャバシャと乱れだした。
「お、おい」
両手で引き上げようにも激しい抵抗で滑って手が離れてしまったので、乱馬はあかねの両脇の下に手を入れてバタつく身体を腕だけで高く引き上げた。
そうして水を飲み込んで咳き込むあかねをプールサイドに座らせると、背中を摩る。
「お前、カナヅチだけは全然っ変わってねえな」
咳き込んで目を潤ませるあかねを見上げる。
「・・・真っ暗だったから急に怖くなっちゃった」
「ん?」
「目を開けたら」
「そりゃそうだろ。夜なんだから」
「目を開いてるのか閉じてるのか分からなくなって怖かった」
乱馬はプールサイドに座るあかねの前にすっと立つ。
「おれが一緒なんだ。怖くねえだろ」
目の奥を見つめるように見下ろすあかねに向かって、また両手を差し出した。
「何かあっても必ず助ける」
水面に反射した自分の声は、あの遠い夜とは別人のように低かった。
あかねは自分に差し出された乱馬の手を握って、もう一度ゆっくりとプールの中に入る。
そうして向かい合ってもう一度あかねが水に浸かろうという時に、乱馬は自分も同じように屈んでプールの中に沈んだ。
目を開くと真っ暗な闇の中で、確かにそれは怖かった。
それでも水圧の中で感覚が変化はしているが、確かに自分の手の中にあるあかねの手の柔らかさ。
真っ暗な水の中は、たった二人の世界だった。
自分とあかね以外の生命を感じない世界。
多分自分が心のどこかで望んでいるような、理想の世界。
あかねは今度はパニックを起こさずに、ゆっくりと立ち上がる。
その手の動きに合わせて、乱馬も水面から体を起こす。
「出来た!乱馬っ、ちゃんと出来た!」
水面から上がったあかねは、まるで幼い少女のように飛び跳ねてはしゃぐ。
それがどうしようもなく愛しく見えて、乱馬はあかねを抱き寄せる。
ここはもう二人だけの世界じゃない。
抱き寄せた身体が強張るのも感じた。
得るのか失うのかも分からない。
「・・・あかね」
願いを込めて名前を呼んだ。
「今はおれの事以外、全部忘れてくれ」
腕の力を緩めて少し離れた一瞬に、見えた美しい瞳は何に怯えていたんだろう。
けれど躊躇う事はなく、乱馬は小さな唇に張り付いた水滴ごとあかねに深く口づけた。
間違えたように深夜に鳴き出す蝉の羽音。
ほら、もうここは二人きりの世界ではないよと訴えている様だった。
いつでも長いようで呆気なく過ぎ去る夏休みの後に来た二学期の三日目に、右京はとうとう耐えきれなくなって乱馬に訊いた。
「なあ、何なん?」
「・・・何が」
「なんでうちがどんよりした乱ちゃんと毎朝並んで登校してんねん?」
右京はまるで、自分があかねであるかの様に隣りを歩く乱馬に違和感を感じている。
「別に。おれがただそうしたいから――」
「あんたどつくで。うちのこと振った男がそれさり気なく言うてええと思うてんの?」
「・・・ごめん」
「まさか・・・振られたんか」
「・・・・・・」
真っ直ぐ立っていられないくらいに重たい空気を纏った乱馬が右京に表情を見られないように顔を逸らした。
「嘘やろ・・・なんでや」
「・・・こっちが訊きてえよ」
「あかねちゃん、何て言うてたん?」
「・・・・・・」
「言えないくらい辛辣な断られ方したんか」
「・・・それが・・・よく分かんねえんだ」
「どういう意味や」
「その、フラれたのは分かったんだけどよ・・・」
あかねから言われた言葉をそのまま話すと、右京は何やら深刻そうな顔をした。
「てっ、天道あかね!!」
校門を抜けようと言う時に、逆に校庭から校門へ駆けこんで来た様々な部活のユニフォームを着た男たちが叫んだ。
それにいち早く反応した乱馬は、右京の腕を引っ張ってそのまま校門近くの大きな木の幹に隠れる。
「な、な、なんだその男は・・・!!早乙女から乗り換えたのか!?」
「そんな事してません!!」
「お前ら!あかねさんにおかしな真似しやがったらこのおれが許さんぞ!!」
そう言ってあかねを守るようにその隣りで群がる男子生徒たちを威嚇していたのは、良牙だった。
「・・・良牙に騎士役を譲ったんか」
「・・・そういう言い方止めてくれ」
乱馬の手を見れば、握った拳が小刻みに震えていた。
明らかに飛び出して行きたいのを堪えているのだと分かる。
「・・・乱ちゃんて、意外と忠犬なんやな」
「な、なんだよそれ」
「まあええわ。とりあえず二人に気づかれる前に校舎入らへん?見つかったら厄介やし」
さばさばとした口調の右京に、人の気も知らねえで、と思う自分は身勝手だなと乱馬は思う。
そうなんだ。人は結局どうしようもなく身勝手なんだ。
どうしようもなく残酷で身勝手だ。
あかねも。おれも。
校舎から立ち上るように見える入道雲が自分に迫ってくるようだ。
「はいそうですか」で忘れられるくらいの物ならば、そんなもの恋でも何でもない。
乱馬は右京に手を引かれながら、そんな事を考えていた。
終わり。
・あとがき・
個人的には書いていて一番楽しいシリーズです。もしも乱馬が幼馴染で片思いの期間が長かったら、原作よりきっと素直だったんじゃないかという自分の妄想予想から生まれたこのお話。じりじりとしてなかなか進んでいかないもどかしいものが好きな私の回りくどい趣向がよく出ている気がしますw