さようなら、夏


 

 

 

「あーあ、今年もとうとう泳げなかったなあ・・・」

「おめーも大概諦め悪いな」

 

憂いを含めた横顔で、旅館の窓際から海に沈み掛けた夕日を眺めているあかねに、すぐ後ろで西瓜にガシガシと齧りつく乱馬が冷たく吐いた。

 

「なーによ乱馬っ!あんたなんてシャンプーと右京とずっとイチャイチャしてただけじゃない」

「してねーよっ。あっちが勝手にすり寄って来たんだ!」

 

「どーだか」

 

「おめーだって『泳げないなら教えてあげようか?』って何回声掛けられてんだよっ!ろくでもねーチャラい男ばっか引き寄せやがって!」

 

「私が引き寄せた訳じゃないもん!向こうが勝手に来ただけで!!」

 

「あんな露出多い水着着てるからだろーがっ!寸胴の癖に!」

 

次の瞬間にあかねは持っていた西瓜の切れ端を乱馬の口に向かって突っ込んだ。

 

西瓜の切れ端は綺麗に乱馬の口にハマって、まるで口角を上げて緑の西瓜柄の歯を見せて笑っているお化けのようだ。

 

しかも喉奥にまで無理やり果肉が到達したために、気管にはいってゴボッとなる。

 

 

「あはははは、バカみたい」

「ふぁふぁはおまえふぁ!!」

 

 

「あんたら、高校二年にもなるってのに何にも変わらないわねー」

 

テーブルで切り分けられた西瓜をスプーンで綺麗に掬いながら、なびきが呆れたように呟く。

 

「そうかしらなびきちゃん」

 

かすみは人数分のお茶を淹れ直しながら、にっこりとほほ笑む。

 

「乱馬くん、あかねが男の子に声掛けられる度にしっかり邪魔しに行ってたじゃないの。ねえ乱馬くん?」

 

ようやく西瓜の皮を自分の口から取り出した乱馬は、かすみの言葉にブホッと西瓜の果肉を吹き出した。

 

「きゃあ!!汚いなっ!もう!!」

 

乱馬が吹き出した西瓜の果肉と種があかねのキャミソールと背中に張り付く。

 

「う、うるせー!!元はと言えば西瓜突っ込んだのおめーだろっ!!」

 

 

色んな意味で顔を真っ赤にしている乱馬を見ながら、なびきが呟く。

 

「それもこれも含めて何も変わってないように見えるけど・・・」

 

「そうかしら」

 

「もう!!あんたなんか大っ嫌い!!」

「おーおー、おめーみてえな可愛くねー女に好かれようとも思ってねえよーだっ!」

 

あかねは顔を膨らませたまま、浴衣とお風呂道具の入った手提げを持つ。

 

「・・・温泉行ってくる!!」

 

「ああ、ちょうど今おばさまが行ってるからタイミングが合ったらお背中流してあげたら?」

 

「そうね・・・どっかの無神経筋肉バカとは違っておばさまは良い人だから、そうするわ」

「おい!!誰が無神経筋肉バカだコラっ!」

 

怒り出した乱馬を無視して、あかねはドスドスと足音を立てながら廊下を渡って行った。

 

「・・・やっぱり何も変わってないわよ、お姉ちゃん」

「あらあら。そうなのかしらねえ」

 

どこに居ても必ず喧嘩をし合っている二人は、もう天道家の日常の風景で。

それに慣れっこな姉二人はどんな怒号が飛び交おうが、自分たちのペースは崩さずにくつろいでいた。

 

 

 

大浴場の湯船から出て来たのどかと、大浴場に入って来たばかりのあかねが遭遇する。

 

「おばさま」

「あらあかねちゃん。ここいいお湯よ。お肌もつるつる」

 

「あの、もし良ければお背中を」

「あら、ありがとう。じゃあお願いしちゃおうかしら」

 

「はい」

 

にこやかに二人で洗い場に並んで座ると、あかねはシャワーと湯おけを使いながらタオルを湿らせてしぼり石鹸をつける。

 

そして年をあまり感じさせない程ふくよかで艶のあるのどかの背中を泡立てたタオルで丁寧に磨いて行く。

 

「あかねちゃんにこんな事してもらえるなんて、おばさん嬉しいわ」

「私も嬉しいです。こんな風に出来るの」

 

娘の居ないのどかと、母を失ったあかね。

穏やかな目が嬉しそうにあかねを見て笑う。

 

「娘が居たらこんな風に一緒にお風呂も楽しめるのよね」

 

乱馬は半分娘みたいなものですけどね、という言葉は飲み込んだ。

今でも日本刀を常に持ち歩く人だ。余計な刺激を与えてはいけない。

 

「早くあかねちゃんと乱馬が・・・そうしたらおばさん嬉しいわ」

「で、でも私たち、そういう雰囲気じゃ全然ないし」

 

「けれどあなたたち、呪泉洞から戻ってきて何だか雰囲気変わったわよ」

 

「・・・え?そうですか?」

「気が付かない?」

 

「はい・・・正直全然」

 

さっきだって乱馬に言われた憎まれ口の数々は、以前と何も変わっていない。

一度は祝言をあげかけたけれど、結局色々な事でうやむやになったまま、二人は変わらぬ日常を過ごしていた。

 

 

「少なくとも乱馬はかなり変わったわ」

 

「ええ?・・・そうですかね」

 

「あの子この頃、眠ってる時にあかねちゃんの名前を呼ぶのよ」

 

「え・・・」

 

「うわ言みたいにね。たまにうなされてる時もあるわ」

 

「・・・乱馬が?」

 

「ええ」

 

 

 

ふと思い当たる。

最近、自分の部屋で眠っていたら深夜にふと人の気配を感じて目を覚ました事があったのだ。

 

そこにはベッドサイドにじっと座ってこちらを見る乱馬が居た。

びっくりしてあかねが跳ね起きようとする前に、乱馬がとても静かな声で呟いた。

 

 

「安心しろ。そんなんじゃねえんだ」

 

「・・・な、なにが」

 

「息してるか、見に来ただけだ」

 

「・・・・・・」

 

「息してるならいいんだ。起こしちまってわりいな」

 

乱馬はそう言ってベッドサイドから立ち上がった。

 

「じゃあ、おやすみ」

 

そうして乱馬は、こっそりと窓から出て行った。

 

 

確かにその時、乱馬の気はただ静かだった。

 

その時は理由が分からずにただ怪訝に思うだけで終わったが。

もしかしたら乱馬は・・・あの事をまだ深く引きずっているのかもしれない。

 

 

「じゃあ背中流して貰ったお礼におばさんが、綺麗に浴衣着つけてあげるから」

 

脱衣所でにっこりと笑ったのどかに、綺麗に浴衣を着つけてもらう。

白地に梅の柄が濃紺で彩られた、美しい浴衣だった。

 

「まあ綺麗。あかねちゃん色っぽいわ」

 

「ほ、ほんとですか?」

「ええ、これならきっと乱馬も喜んでくれるでしょう」

 

脱衣所の暖簾をくぐった時にのどかに言われたあかねは怪訝な顔をした。

 

「乱馬が喜ぶ・・・おばさまどういう・・・?」

 

「うふふ、なんでもないの。行きましょうあかねちゃん」

 

楽しそうに笑ったのどかが、何かを含んでいる気がしたが、深く追及はせずにその背中を追った。

 

 

 

「なんだよ、親父もおじさんも蚊くらい自分で退治出来んだろ」

 

「それが蚊帳の中に入っちゃってもうなっかなか蚊が見えんのだよ」

 

「そそ、昔は箸の先でちょちょいと捕まえたもんだよね天道くん」

「早乙女くーん、それはハエだろ?お師匠様に言われて」

「あれそうだっけ?」

 

「親父、腕が鈍っただけじゃなくて頭まで鈍って来たか」

 

憎まれ口を叩く息子に怒りマークをつけながらもニヤリとした玄馬は、自分たちの滞在している別部屋の扉を開けると思いっきり乱馬を放り投げた。

 

「やや、しまった手が滑ったあ!!」

 

不意を突かれて蚊帳に向かって投げ飛ばされた乱馬はゴロゴロと蚊帳の中に転がり込む。

 

「ってえな!何すんでい!!」

 

 

「ふふふふふふ」

 

玄馬と早雲の不気味な笑い声が聞こえる。

 

「・・・乱馬?どうして?」

 

「え」

 

ふと見れば蚊帳の中で綺麗に二組敷かれた布団の上に浴衣姿のあかねが居るではないか。

 

「え!?あかね・・・何してんだ?」

「何っておばさまとここで夕涼みしようって言われて・・・」

 

「そうなのか」

「ええ」

 

「・・・なんか匂うな」

 

「え、私別に何もつけてない・・・」

「じゃなくてここにおれとお前が二人って事だよ」

 

 

「ふふふふふふふ」

 

 

「おい!親父たち!!一体、何企んでんだ?」

 

「二人ともご対面は済んだかな」

 

「何言ってやがんでい!」

 

 

乱馬が蚊帳から出ようとすると、蚊帳が湾曲して大きな拳の形を作り、乱馬を正面から思い切りパンチする。

 

バウンッと凄い音と共に乱馬は反対の面の方に投げ出されたのだが、今度はそちらが沢山の拳の様になり乱馬を乱打し始めた。

 

「いでっ!!いででで!!なにすんだ!?なんだこの蚊帳!?」

 

「乱馬くん、この蚊帳はね初夜乃蚊帳と呼ばれるこの地方に伝わる家宝だよ」

 

「初夜乃蚊帳?なんだそりゃ」

 

「それはここの旅館のご主人に説明して貰おう」

 

 

入り口の引き戸の向こうから、作務衣を着たよぼよぼの頭には毛髪が一つもない白髭の老人が現れた。

 

「それは我が海村に古くから伝わる家宝ですのじゃ」

 

「あのおじいさん、この蚊帳から出たいんですけどどうしたら?」

 

その間もどこからか脱出しようとして、散々蚊帳にぼこぼこに殴られひっくり返る乱馬の代わりにあかねが訊く。

 

「そこから出たくば朝が来るまでに男女で交わるしか手がないんじゃて」

 

「えっ・・・!?」

 

驚きの言葉に二人で同時に声が出た。

 

「しかも明朝までに交わらんと次の夏までそのままじゃ」

 

 

 

「・・・・・・」

 

絶句している二人に、早雲と玄馬の怪しい笑い声といやらしい顔が見えた。

 

「ふふふふふふ」

 

「ふふふじゃねえよ!!気持ち悪りい笑い声出してんじゃねえ!!」

 

「そうよお父さん!!こんなとこに無理やり入れるなんて信じられない!!」

 

「あかね、これはお父さんたちなりの君たち二人への愛だよ」

 

「そうじゃ!!乱馬よ!!据え膳食わぬは男の恥よ!!」

 

「す、据え膳て言われてもなあ・・・」

 

怪しい顔の父二人の近くから、のどかが顔を出す。

 

 

「乱馬・・・これから本当の男になるのね。あかねちゃん乱馬をよろしくね」

 

嬉しそうにそっと目がしらを押さえるのどかの言葉に二人は激しく動揺した。

 

 

「なっ!?お、おふくろ!!変な事言わないでくれよ!!」

「おっおばさま!!私たち本当にまだそこまでの仲には・・・!」

 

 

「でもそこから出るには男女で交わる・・・契りを交わすしかないという事だそうもの」

 

 

「ま、交わるって・・・」

「契り・・・」

 

二人は狼狽えて俯く。

 

「明日の卯の刻までに男女で交わりを交わされる事じゃな。さすれば無事に出られようて」

 

「卯の刻か。午前5時までだよ乱馬くんとあかね。それまでには、ね!ね!」

「なあーに、天道くん。わしの子じゃ。いざとなればなあ!!乱馬!!」

 

「うるせー!!とっとと出て行きやがれ!!」

 

「乱馬っファイトよっ!!」

 

息子に向かって爽やかにガッツポーズをして見せたのどかの笑顔を最後に、部屋のドアはぴしゃりと閉められた。

 

 

 

「・・・・・・」

 

ちりりん、と軒下の風鈴が潮風に揺らされる音だけが部屋に響いていた。

 

二人はもちろん一定の距離を取ったまま座っている。

気まずい沈黙が流れて、どれくらいの時刻が経ったのだろうか。

 

二人ともじっとしたまま、動けなくなっていた。

 

枕元にはデジタルの時計があった。

それを見れば19時を過ぎた所。

 

 

本来ならきっと皆と賑やかに食事を楽しんで頃だ。

 

もちろんここには食事はない。

食べたければ早く出てこいという親たちの重圧も感じる。

 

更に枕元にはティシュボックスとその行為を行う時に装着するのであろうもののパックされた物が置かれている。

 

乱馬はそれを見てますます赤くなった。

 

なんだここは。

こんな恥ずかしい所に実の親がわざわざ放り込むとかどんな神経してやがんだ。

 

ぐっと立てていた両膝を抱え込んで考える。

 

 

あかね、きっと困ってんだろうな・・・。

 

 

ちらりとあかねを見れば、こちらを見ないように窓際に向かって座っていた。

電気は消されていたが窓が開いたまま薄暗い中でも月の光が差し込んでいるせいか、部屋の中の様子ははっきりと見えた。

 

 

白地に紺の柄の入った浴衣はあかねにとても似合っていて、短い襟足から伸びる白いうなじも際立たせて美しく見える。

 

 

思わず見入ってしまいそうになるそこから目を逸らして、落ち着こうと深く長い溜息を吐いた。

 

 

 

背後から乱馬の深く長い溜息が響いてくるのを聞いて、あかねは落ち込んだ。

 

そうして先ほどのやりとりを思い出す。

ついさっき思いっきり「寸胴の癖に」と言われたばかりだ。

 

乱馬に好意を持たれていない訳でないのは分かっている。

けれど乱馬をそういう気持ちにさせるような色香を自分が持っているかと言えば、限りなく無いに等しいんだろう。

 

シャンプーみたいに色気があれば。

うっちゃんみたいに可愛ければ。

 

喧嘩の先でそんな風に言われた事もこれまで数えきれないくらいだ。

 

一度は祝言まであげそうになった仲だ。

気持ちが通い合っているのは、信じているし信じたい。

 

けれどこういう事はどうかと問われれば、まったく自信がない。

 

だから懸命に女性らしさを磨いているつもりだった。

 

 

バストアップの体操も乱馬に内緒で相変わらず頑張っているし、ウエストを細くするする為の筋トレも欠かしていない。

女性のモテ仕草などとテレビでやっていれば食い入る様に観てしまったりして、なびきにからかわれる程だった。

 

 

けれど乱馬にそういう努力は全く通じていないようで、自分の容姿を褒めてくれた事など全然ない。

 

相変わらず、寸胴だとか色気がないと言われる日々だ。

 

そんな自分と乱馬がこのたった一晩でどうなれというのだろう。

到底無理な事だ。きっとこのまま来年の夏まで居るしかなくなってしまう。

 

 

もっと私に色気があったら、乱馬はこんな風に困ったりしなかったのかな。

 

 

そう思ったらほろりと涙が流れて来てしまった。

 

 

こんな所、乱馬には絶対に気が付かれたくない。

あかねは早く涙を引っ込めようと、近くに聞こえるさざ波を聞きながら懸命に瞬きを繰り返していた。

 

 

「・・・あの、さ・・・ま、まあ安心しろよ。お前が困るような事はしねえから」

 

 

落ち着いた所で、とりあえずこの緊張感だけは何とかしようと思った乱馬があかねに向かって声をかけた。

 

頑張って声のトーンも明るくしたつもりだ。

 

けれど自分の言葉にゆっくりと振り返ったあかねの目を見て乱馬はぎょっとする。

 

 

「おま・・・何泣いてんだ・・・」

 

「な、泣いてない!目にゴミが入っただけっ」

 

懸命に涙をこらえ切ったと思っていたのに、直ぐにバレてしまってあかねは狼狽える。

 

「だって両目が・・・」

「だからゴミ・・・」

 

 

嘘を吐け、と乱馬は思う。

あかねの泣き顔をこれまで何度見て来たか。

 

 

自分がそれを見間違える筈がない。

 

 

「あの・・・変な意味じゃなくて、そっち行くぞ」

 

 

あかねを怖がらせたくなくて、そう伝えたつもりだった。

けれど良いとも悪いとも返事がない。

 

結局、乱馬は考えた末にあかねの返事を待たずに、あかねの方へゆっくりと近づいて行く。

 

そうしてあかねのすぐ隣まで来たが、顔を覗き込まれたあかねは乱馬から顔を背ける。

 

 

「おい・・・なんで泣いてんだよ」

「だって・・・」

 

 

俯く横顔が綺麗で乱馬の胸を締め付ける。

 

 

 

「乱馬は・・・困ってるんでしょう?私とこんな所に入れられちゃったから」

 

「困ってねえ訳じゃねえけど、絶対に脱出する方法考えてやるから。お前に変な事したりしねえから安心しろって言いたかったんだ」

 

「・・・そうだよね。私はシャンプーや右京みたいに色気も、可愛げもないから」

 

「・・・ん?」

 

そこで自分とあかねの会話が何かズレているという事を乱馬は把握した。

 

「ちょっと待て。何で今シャンプーやうっちゃんの事が出てくるんだ?」

 

 

「だから乱馬は、今の私じゃ色気がなくてそういう気持ちにはなれないって事でしょう」

 

「おい・・・おれそんな事一言も言ってねえぞ」

 

 

今の瞬間だってお前の横顔に見惚れていたのに、何言ってんだ。

 

このたまにドマイナス思考に入る許嫁は、自分が思ってもいない所で落ち込んでいたりするから乱馬はただびっくりする。

 

 

「でもいつもそう言ってるじゃない。二人みたいに色気も可愛げもないとか。さっきだって寸胴って・・・」

 

 

・・・そうか。ああ、そうか。

あかねがドマイナス思考なせいだけじゃない、自分のせいか。

 

 

けれどあんなのただの軽口で、喧嘩の延長なだけで。

 

本気でそんな事思ってる訳じゃないんだから伝わるだろうと思っていることは、意外と伝わっていないらしい。

 

 

「だから、おれがお前になんか手出さねえから安心しろよって言ってると思ってるって事か?」

 

「・・・そうよ。実際そう言ってた事もあったじゃない」

 

「え?いつ」

 

「右京がうちに押しかけて来た時に・・・」

 

 

あ、と乱馬は思い出す。確かにそんなことは言った。

言ったしその後何も起こさずに何とか一晩を明かしたのも事実だ。

 

 

けれど肝心なところをあかねは知らない。

 

あの後、寝ぼけたあかねに抱きしめられてどれくらい自分の欲望と葛藤したと思ってんだ。

 

 

「お前、あの時おれが平然と寝てたとでも思ってんのか」

 

「え・・・」

 

「お前は平然とぐーすか寝てやがったけどな」

 

「でもあの時は・・・」

 

「何もしてねえよ。ちゃ、ちゃんと我慢したからな」

 

「・・・・・・」

 

驚いた顔で自分の方を向くあかねに、今度はこちらが気まずい思いをする。

 

「・・・そうなの?」

 

「・・・そうだよ」

 

「なんで言ってくれなかったの」

 

「そっそんな事!言える訳ねーだろばかっ!!」

 

 

あの時のあかねの胸の柔らかさだとか感触は、その後も随分と自分を悩ませた。

なんて事だって絶対にあかねには言いたくない。というか言えない。

 

 

それにあかねは分かっていない。

 

 

本当に大事だと思っているものに、全く逆であるような欲望をぶつけるという事が、どこかで後ろめたいという事を。

 

何より神聖で大切なものと感じながら、乱して汚したいという欲望も持っているという自分の矛盾。

 

その激流に押し流されてしまった方が本当は楽だ。

 

 

 

だけど。

 

「誤解させてた事は悪かった・・・」

 

「・・・うん」

 

ふと目線を上げれば、横から見える浴衣の胸元の隙間から綺麗な湾曲が見える。

 

 

それを掴んで感触を確かめたいという衝動の波と目を閉じて戦う。

想像の中でその浴衣が着崩れてあかねが艶っぽく喘ぐ姿が浮かんでくるのをかき消す。

 

 

「うああああ」

 

乱馬は悶々とする気持ちを吹き飛ばすように、自ら蚊帳の端の方の板間の部分にゴンゴンと頭を打ちつけた。

 

「え、ら、乱馬・・・?」

 

「痛えぇ・・・」

 

 

 

痛さに涙が出そうになって布団の上をゴロゴロと転がる。

 

そりゃそうだ。本気で頭を打ち付けたから痛いのは当然だ。

あかねはその姿に戸惑っている。

 

 

 

「・・・めちゃくちゃ抱きてえ」

 

 

うつ伏せた布団の隙間から、ぼそりと本音が漏れる。

下半身だってそれなりになってしまった。

けれどあかねにそれは見られたくない。

 

 

痛さで少し紛れたような、紛れてもいないような。

 

「・・・え」

 

「けど、こんな事でお前とそうなるのは不本意だ」

 

 

気持ちや流れに任せたいのは山々だし、今だってもしあかねに抱き着かれたりしたら理性が吹っ飛ぶ自信が満々だ。

 

それでも自分の何かがどうしても、今はまだ駄目だと言っている。

 

 

 

「・・・乱馬?」

 

「・・・あかね」

 

乱馬は自分を心配そうに伺うあかねの姿を見る。

 

「一つだけ、お前に頼みがある」

 

「・・・なあに?」

 

 

「何もしないでこっから無事に出られたら・・・お、お前にキスしてもいい?」

 

 

暗がりでも何となく分かった。

 

あかねはきっと顔を真っ赤にしているんだろう。

俯いた表情からそれが読み取れる。

 

それにしても恥ずかしさで両腕をぎゅっと前で絞るのは止めろ。

胸が余計に強調されるじゃねえか。

 

乱馬は苦しくなりながら、目線をあかねの顔だけに移す。

 

 

「・・・うん。い、いいよ」

 

 

そう呟いたあかねの愛らしい表情。

 

 

可愛いなあ・・・おれの許嫁。

どうしようもなく、好きだ。

 

 

そのたった一言で天にも昇るような、簡単に骨を抜かれてしまうような。

どこまでも頑張れるような。

 

 

 

「・・・よしっ。約束だかんな」

「うん」

 

 

これで自分があかねに不本意に手を出してしまう事はなくなった。

・・・と思う。

 

 

「あかね」

「ん?」

 

「その浴衣姿目の毒だから、布団被っててくれねえか」

 

「わ、わかった」

 

おずおずと隣りの掛け布団に包まる姿も愛らしい。

 

「・・・とりあえず寝るか」

 

「う、うん」

 

 

乱馬はあかねに背を向けるように横向きになっているが、当然全く寝付けない。

ざざんと柔らかに聞こえてくる波の音。高貴な音楽のように風に揺れて鳴る風鈴。

 

昼間の蒸し暑さも大分和らいだが、それでもまだ蒸し暑い部屋の中。

それでも深い緑の蚊帳は何故だか涼しさを感じさせる。

 

出来るだけあかねを感じないようにしようと別の感覚を研ぎ澄まそうとするが、それで存在が消せるくらいならば苦労なんかしない。

 

 

一体どれくらいの時間が過ぎたのだろう。

 

 

結局うとうとする事すらも出来ずに、寝返りも身じろぎもせずにそのままで居る。

 

 

 

「・・・乱馬、寝ちゃった?」

 

 

背後から聞こえた小さな声にびくりとする。

 

 

「いや・・・」

 

それからあかねの布団の方で衣擦れの音が聞こえて、何だかドキドキとしてしまう。

 

 

「・・・あ、あの。出来れば・・・手を繋ぎたいんだけど、ダメ?」

 

 

・・・そんな可愛い言い方されて断れるかバカ。

 

「・・・いいよ」

 

あかねの方に向きたいのは山々だったが、とにかくあかねが視界に入ってしまうと自分が危険だ。

 

 

乱馬は仰向けになって、右腕だけを何とかあかねの方に少し出す。

と、あかねの小さな手が自分の右手の下に差し込まれてきゅっと掴まれた。

 

 

熱くて柔らかい。

 

甘くとろけそうな気分になる。

 

 

「ねえ乱馬。眠い?」

「・・・全然」

 

そこであかねがふっと笑む息が聞こえた。

 

「じゃあお話しない?」

「どんな」

 

「んー・・・例えば、乱馬の子どもの頃の話、とか」

「おれの子どもの頃の話なんてなあ、そもそもあんま覚えてねえし」

 

「あー、乱馬って覚えてなさそう」

「おい、どういう意味でい」

 

「何となくそんな感じ」

「人をばかにすんじゃねえ」

 

「してないわよ。天真爛漫過ぎて覚えてなさそうって事」

 

それは、褒め言葉なのか。結局ばかにしてねえか。

曖昧なまま乱馬は蚊帳越しに天井を見上げている。

 

 

「じゃああかねはどうなんだよ?」

「ん、私?」

 

「そう。お前は覚えてんのか?小さい頃の事」

 

あかねはしばらく無言になった。柔らかい風が吹き込んでちりりと風鈴の音がする。

 

「結構、覚えてるよ」

 

「どんな事だよ」

 

「こういう蚊帳とか懐かしいもの。よくお姉ちゃんたちと三人でね、一緒にお布団並べて寝たの」

 

「へえええ」

 

「それでね、みんなでね。お話作って遊んだり、天井に影絵作って遊んだりしてたなあ」

 

「そうなのか」

 

 

小さな三姉妹が布団を並べてそうしてる姿を想像すると、何だか気持ちが和んだ。

 

小さな頃のあかねってどんなだったんだろう。

 

きっと可愛かったんだろうな。

一度くらい、会ってみたかったな。

 

 

 

「私たちきっと・・・夜が来るのが怖い時があったんだ」

 

「・・・ん?なんで」

 

「お母さん亡くなってすぐの頃だったと思う。夜がとても怖かったの」

 

 

・・・ああ、そうか。

あかねの母ちゃん。

 

 

「だから三人で寝てたんだ。お姉ちゃんたちに挟まれて」

 

「今でもそんな時ってあるのか?」

 

ふふ、と小さく笑う声がした。

 

 

「今はないよ、もう」

 

「そか」

 

「今はもう、うるさいくらい。乱馬たちのおかげで」

 

「な、なんだそれは。本当におかげと思ってんのか」

 

「半分はね」

「半分かよ」

 

 

あかねが楽しそうに笑う。

 

 

「・・・乱馬はないの?夜が怖いと思う事」

 

「おれは別に・・・」

 

 

何もないと言い切ろうとして思い出す。

たまに夢の中で、呪泉洞のあかねが消えた瞬間の光景を繰り返す事。

 

 

一瞬で世界が闇に閉ざされたような瞬間。

 

 

もう二度とあんな風な思いはしたくないのに、落ちてくる場面。

 

 

怖いと言うのは嫌だった。

克服したい。

 

けれど、怖くないというのは嘘だった。

 

何も答えられないでいると、あかねの手にきゅっとまた力が籠る。

 

 

 

「乱馬」

「・・・ん」

 

「私の手温かい?」

「うん」

 

「私・・・生きてるよ」

 

「・・・ん・・・」

 

 

ちゃんと「うん」と答えたつもりでいたのに声になりきらなかった。

駄目だ。どうしても。

 

 

柔らかくて小さくて温かい。

生きているあかねの手。

 

 

指と指を絡めるように握り直して、しっかりと密着させる。

そうしながら左腕で溢れてくる涙を拭った。

 

 

 

これ以上、どう好きになれって言うんだ。

 

 

 

誰に言われた訳でもないのに、そんな言葉が浮かぶ。

 

 

「・・・あかね」

 

「なあに?」

 

「しりとりでもやるか?」

 

ふっと吹き出したあかねの声がはしゃぐ。

 

「なーにそれ」

 

「今思い出した。昔さ、よくやってたんだよ、親父と」

 

「えー、そうなんだ」

 

「あいつ今と同じですっげー狡くてさ。色々変な言葉言って誤魔化されたなぁ」

 

 

あんなにも遠いと思っていた夜明けは、いつの間にか迫っていた。

二人は手を繋いだまま夜通し語り明かした。

 

そうしてまた、何かが深く刻まれて行く。

 

 

 

卯の刻を過ぎた時。

既に空は明るくなり始めていた。

 

「よし、とにかくもう一度蚊帳の力を試してみるか」

「うん」

 

「いくぜっ!!」

 

ダメ元で意を決して体当たりするように乱馬が蚊帳の外に向かって行くと、蚊帳はあっさりと捲れて、乱馬はそのままの勢いで引き戸の方まで思い切り突き抜けてしまい、戸ごと外れて部屋から飛び出した。

 

 

「うわああああああっ!!」

 

 

あかねは驚いて乱馬を助けようと蚊帳から出る。

普通にするっと捲り上げて出る事が出来た。

 

 

「え、なんで・・・」

 

 

引き戸ごと廊下に飛び出した乱馬は、その下で違和感を感じる。

見れば見事に伸びて失神している玄馬と早雲が居た。

 

「って親父!?おじさん・・・何してんだ・・・?」

「朝も早うから出歯亀っちゅうものをしとったな。お前らの親父さんたちは」

 

この騒音で様子を見に来たのか、昨日の白髭の老人が欠伸をしながら近づいてくる。

 

 

「趣味わりーなー・・・」

 

「お前さんら、無事男女の交わりを済ましたようじゃな」

 

「え、いやいやいや!!してないしてない!!してないよな!あかね!」

「う、うん!してないですっ」

 

慌てる二人に向かって白髭の老人はにやりと笑った。

 

「嘘をつくでない。それでなければこの蚊帳は通してくれる訳がなかろう」

 

「嘘なんてついてねーよ」

「そうです!私たち・・・」

 

 

老人は何故か二人の手をそれぞれに取るとそれを近づけて手を握らせた。

 

 

「一晩の間に男女の交わりを交わしたんじゃろう。こうして」

 

「・・・え」

「ま、まさか・・・あの交わりっつうのは?」

 

 

「仲睦まじくお手々を繋ぐ事に決まっておろうが。他に何があるんじゃ」

 

 

他にも色々あるだろ!!

むしろそっちのが有名だろ!!

 

 

という突っ込みが頭を駆け巡ったが、完全に脱力してしまった二人は何も言う事が出来ず、ただ間が抜けたように笑うだけだった。

 

 

 

 

「まさか手を握るだけの事を交わりとはねえ・・・」

 

旅館から駅までの道のりで、なびきが呆れたように乱馬とあかねを交互に見る。

 

 

「そりゃそうだけどさって話だよね、天道くん」

「そうそうそう!そりゃそうだけど普通違うじゃんって話だよね?早乙女くん」

 

「乱馬、蚊帳の中で何もできなかったのかしら・・・男らしくないわ」

 

おろおろとするのどかが日本刀の鞘に手を掛けようとした所で、それを押さえてかすみがにっこりと笑った。

 

「でもおばさま。二人は手を繋いで一晩明かしたんでしょう?」

 

 

あかねは先頭を歩いている為に、皆のやりとりを知らずに居た。

少し後方では、両脇をシャンプーと右京に取り合われている女の乱馬が歩いている。

 

「乱ちゃんはうちのや!」

「何言うてるか!私のものね!」

 

「どっちのものでもねーよっ!離せっ!!」

 

見たくはないし不愉快だ。

それは前から変わらない。

それでも今日は、怒るような気にもなれなかった。

 

そんな風に思っていた時に、二人を振り切ったらしい乱馬があかねの前にすとっと着地して隣りに並ぶ。

 

「あかねっ」

「なあに?」

「昨日の約束覚えてるよな?」

 

「え・・・なんだっけ?忘れちゃった」

「え!?忘れた・・・って・・・う、嘘だろ・・・」

 

相当なショックを受けたのか立ち止まる乱馬。

その姿を見てふっとあかねが笑う。

 

「嘘だよ」

 

「おい・・・!」

 

 

「また、二人きりの時にね」

 

 

その瞬間に乱馬の顔が一気に真っ赤に染まった。

 

 

「う、うん」

 

と言ってる間にもシャンプーと右京が直ぐにやってきて乱馬は両脇を再び抱えられてもがいていた。

 

「あかねっ!絶対だかんな!!」

 

 

 

そんな二人のやり取りを見ていたのどかが、刀を収めてふっと笑んだ。

 

 

 

「・・・そうね。確かにかすみちゃんの言う通りだわ」

 

 

 

二人の時間はゆっくりと、けれど確実に流れている。

きっと誰かが背中を押すまでもなく。

 

 

 

 

そうして二人の17才の夏が終わった。

 

 

 

 

 

終わり。


・あとがき・

Twitterのフォロワーさんの願望から考えたこのお話は、とても色んなキャラクターを出せて、夢中で一気に書いてしまう程楽しかったです^^自分は乱あを筆頭として、他のらんまのキャラも好きなんだなと改めて思いました。

プラトニックをぎりぎりまで貫こうとする乱馬が好きです。ずっと貫かれたら困るけどw

一方では真逆の乱馬も好きだけど、そういう乱馬も書いて行きたいです。