どうでもいいんだ、話がしたいよ


 

 

「ねえ、好き」

 

 

 

うん。

 

 

 

「好き」

 

 

 

うん。

 

 

 

「好きだよ、乱馬」

 

 

 

うん。

 

 

 

「大好き」

 

 

 

 

 

深く貫く度にぽろぽろと涙を零しながら切ない声で懸命に訴えるあかねの美しさだけは、ずっと自分だけのものだと思っていた。

 

その言葉が甘い声がもっと聞きたくて。

 

美しい顔が快楽で切なく歪むのがもっと見たくて。

 

 

ただ懸命になっているうちに、自分が奪ってばかり居るという事に気が付かずにいた。

 

 

 

 

 

「・・・雷、もう止んだぞ」

 

「ああ、うん」

 

 

そう答えた声はあかねとはまるで別人の声。

 

昨日、一緒に飲んだ仲間内の友達らしいその女は、短い髪で美しくて快活にさばさばと話して割と好きなタイプだったけれど、強過ぎる香水の匂いが苦手だった。

 

そんなの付けなくったって、良い匂いのする女の方がいい。

 

 

自分と同じ石鹸の香りくらいで十分なんだ。

 

 

努力するなってことじゃけしてなくて。

 

 

 

例えば?

 

 

無駄な努力かもしれないのに、隠れて懸命にバストアップ体操をしてる女とか。

 

 

隠してたバストアップに効果のあるらしい新作のボディークリームをおれが見つけてしまった時のあいつの真っ赤な顔は、今思い出したって吹き出してしまう。

 

泣き出しそうな顔して怒って「あんま効果なさそうだな」って軽口のつもりで言ったら、本気で殴りかかってきた。

 

泣きそうになりながら顔を真っ赤にして本気で怒る姿が可愛くて、わざと言って楽しんでたって正直に言っていたら、やっぱりあいつは本気で怒ったのだろうか。

 

 

それとも、素直に喜んでくれただろうか。

 

 

 

「あのさ。私帰った方がいい?」

 

「・・・送ってくよ」

 

 

 

それは優しさからではなく帰って欲しいという意味だった。

 

立ち上がってカーテンを閉める。

 

それからこの部屋におれを一人にしないでくれ、という意味でもあった。

 

玄関のドアの前に女が立って出て行くのを見ると、あの日が鮮明に蘇って眩暈がするから。

 

 

 

 

ドアを開けたら、さっきまでの激しい雷雨が嘘のように青い空が広がっていた。

 

これは結納日和と言うのだろうか。

 

 

おれはいつか「おめでとう」とあかねに平気で笑いかける時があるのだろうか。

 

 

 

結納までする相手が出来たという事は、あいつのあんなに無防備な切なくて可愛い姿を、おれじゃない他の男が知ったという事なのか。

 

 

透き通るくらいに白い肌や、潤むと深い湖面のように色を変える瞳。

 

拗ねると小鼻が膨らむ所は?

フグみてえに膨らむ頬っぺたは?

怒ると逆三角形みたいになる目は?

小さいくせして鋭いパンチの拳は?

 

 

いつも待ち合わせで遅刻するおれを、人混みから見つけた瞬間のあの嬉しそうな顔は?

 

 

その後くどくどと怒る早口のあのリズムの良い声は?

 

 

これからはそれも全部。

 

おれしか見たことがなかったものが全部、新しい誰かで塗り替えられていくのか。

 

 

 

そこまで考えが行きつくと、気持ちはポカンと底が抜ける。

 

昨日からずっとそれを延々と繰り返していた。

 

 

昨日なびきから電話で「明日があかねの結納だ」って聞かされた時から。

 

 

 

 

「ねえ早乙女くんてさ、高校の頃許嫁居たんでしょう?」

 

住宅街の道を並んで歩く名前もよく覚えてない女は、簡単に人の傷を抉るタイプだったらしい。

 

コツコツと隣りから響くヒールの尖る音が耳慣れない。

 

あかねはあまりヒールの高い靴を履いたりすることがなかったから。

 

「うん」

 

「珍しいよね、今どき」

 

「だな」

 

「なんで別れたの?高校の時はそれなりに仲良かったって聞いたけど」

 

 

酷く面倒な質問だなと苛立った。

 

 

「誰から訊いたんだ?」

 

「ひろしくん」

 

ああこいつは、ひろしの知り合いだったのかとそこで知る。

 

「あいつは何て言ってたんだ?」

 

「乱馬が悪い!って言ってた」

 

 

その「乱馬が悪い!」の言い方があまりにひろしにそっくりで、思わず笑ったらそいつも楽しそうに笑った。

 

「その通りだよ。それだけだ」

 

「なあにそれ、なんだか恰好付けた言い方ね」

 

「・・・お前、なかなかずけずけと言うなあ」

 

「うん。よく言われる」

 

 

昨日の夜自分の所にきっと口説かれに来た筈の女なのに、それでも自分に全く媚びない物言いは良い。

 

 

媚びたり泣かれるのは面倒だ。

好きでもない女に。

 

 

「私さ、早乙女くんの事一度見かけて気に入ってたの。顔が。だからひろしにあいつ失恋したから今がチャンスかもなって言われて、チャンスと思って昨日の飲み会参加したんだけど」

 

「そりゃどうも」

 

「家まで連れ込んどいて何もしないって噂、本当だったのね」

 

 

思わず電柱に思い切り頭をぶつけた。

 

 

「・・・大丈夫?すごい音したけど」

 

「な、なんだそれ?おれそんな事で噂になってんのか?」

 

 

 

「構内中の噂よ。その元許嫁さんの所まで届いてるかは知らないけど」

 

「・・・はははは、もし届いてたら、すげえダセえなその噂」

 

 

 

絶望的に格好悪い。

恥ずかしさで眩暈がした。

 

でもそんなの今更だ。

 

あかねにフラれた日から、自分が格好いいと思う日なんて一日もなかった。

 

 

 

「部屋に連れ込んどいてさ、自分は床に寝るってどういう事?そういう事する気ないわけ?」

 

 

ずけずけもここまでくると辟易とする。

 

けれどだからこそ正直に答える事が出来そうだった。

 

 

「全くない訳じゃねえんだけど、いざとなると・・・なんか違うってなる」

 

「その時点で私も含めて家に連れ込んだ女性に凄い失礼ね」

 

「だよな、ごめん」

 

 

一番はただ部屋の中に人の呼吸の音が欲しかったなんて事までは言えない。

 

自分にはまだ見栄を張るという気持ちはあるらしい。

 

 

 

「早乙女君はまだ元許嫁さんが好きなのね」

 

 

返事はしなかった。

本人にすら直接言えなかった事を、他の女に言いたくもない。

 

 

「ならもう、他の女を家に連れ込んだりはしない事ね。連れ込まれる方も迷惑よ」

 

「ごめん」

 

 

それはぐうの音も出ないくらいに自分が悪かった。

 

あかねがおれを本気でそういう男だと思うなら、本当にそうなってやろうと思った事もあった。

 

けれど実は淋しさからだった。

どこかで見返してやりたいとも思ってた。

 

 

もうこの辺りの理由がどうしようもなく格好悪い。

 

 

そしてどの気持ちも満たされず、今に至っている。

 

 

 

 

駅前のバスターミナルは程よく人が並んで居たが、混んでいるという程ではなくて。

丁度いい時間のバスがあったらしいその女はそそくさとバスに乗り込んだ。

 

 

「まあ、さっさと忘れる事ね」

 

これ以上余計な話をしなくて済むと思っていた所でもう一度抉られて、ただ苦く笑うしかなかった。

 

 

 

 

近くのベンチに座って背を逸らすと、もうすぐ夏が終わってしまうよと訴えてくる夏らしい空の青さを逆さに見る。

 

 

「・・・さっさと忘れる、か」

 

 

一応言葉にはしてみたが、残念ながらそれを出来ない絶対的な自信があった。

 

 

さっさとあかねとの記憶を掻き消せるものがあるならば、教えて欲しいくらいだ。

 

 

 

それでも人はいつか。

 

きっと長い時間を掛けて記憶を薄れさせて忘れていってしまうんだろう。

 

 

どちらかと言えばその方が耐えがたかった。

 

いつかあかねを忘れて懐かしい思い出として胸に秘めて生きていく自分の方が。

 

 

口淋しくなってポケットからミントガムのタブレットを口に放り込む。

 

 

あかねは辛いミント味のガムが苦手だったっけ。

 

「お子ちゃま」としつこくからかうといつもムキになって学生鞄をぶんぶんと振り回された。

 

 

 

高校の頃のあかねは、本当に可愛かった。

直情的で表情が豊かで。

 

思った事を直ぐそのまま口に出して怒って泣いて。

直球のどストライクしか投げられなくて。

 

 

 

 

「乱馬・・・大好きだったよ。バイバイ」

 

 

アパートのドアの前で薄っすらと涙を浮かべて笑ったあかねの瞳は、その一瞬に色んな感情を含んでいた。

 

 

高校の頃とはまるで違う複雑な表情で。

 

けれど高校の時よりも更に美しさを増したその顔に、おれは茫然とただ見惚れているだけで。

 

そんなおれに躊躇う事もなくあいつは部屋から出て行った。

 

 

 

思い出したくもない光景が降ってきて目を閉じる。

瞼の向こうからでも夏の日差しは眩しくて刺さる。

 

 

 

 

もしも今タイムリープが出来て、過去に戻れるとしたらどうする?

 

 

 

初めて身体を重ねた夜に戻って、そうなる前にあかねにちゃんと伝えるか?

 

それとも痛がりながらも涙ぐんで「幸せ」だと囁いたあかねにちゃんと伝えるか?

 

初めて二人で朝を迎えた時に、目を開いたおれを幸せそうに眺めていたあかねにちゃんと伝えるか?

 

 

二人だけで行った夏祭りに、途中から乱入してきたシャンプー達から逃げ回るばかりで台無しになったと怒って拗ねていたあかねにちゃんと伝えるか?

 

 

ああ、そんな事あったっけ。

懐かしいな。

 

 

あれはおれのせいじゃなくてシャンプー達のせいじゃねえか。

 

ずっとその気持ちが沸々としていたから結局ちゃんと謝れなくて、けれどどうにかあかねに機嫌を直して欲しくて。

 

 

立ち寄ったコンビニで売れ残っていた線香花火の一束を買って、あかねにそれを押し付けた。

 

 

「お、お前が嫌じゃなければ、あ、後で・・・」

 

本当は「一緒にやろう」とはっきり言いたかったんだ。

けれど言葉に詰まって、それは声にならなかった。

 

 

押し付けたその束を大事そうに受け取ったあかねが、頬を染めて柔らかく笑う。

 

「・・・うん。後でやろうね、一緒に」

 

言わなくてもちゃんと伝わってる。

ちゃんと受け止めて貰ってる。

 

そう思ってあの時凄く嬉しかったんだ。

 

 

庭先で線香花火に照らされた美しさは儚げで。

正直花火よりもあかねの顔ばかり見てた。

 

 

浴衣姿でちんまりと座る、愛しい許嫁。

 

 

 

あの時もし、それをそのまま言葉にしていたら?

 

綺麗だって、可愛いって、ずっとお前とこのままで二人で居たいって。

 

 

そうしたらお前はあんなに悲しい顔でおれに「バイバイ」なんて言わずに済んだのか。

 

そうしたらおれはこんなに淋しくて情けない自分を知らずに済んだのか。

 

 

あの朝にシャンプーが部屋に乗り込んで来なかったら?

 

追い出す時にドアからじゃなく窓からにしておいたら?

 

ドアの前であかねとおれたちが鉢合わせなかったら?

 

 

その後にはっきりとあかねに自分の気持ちを言葉に出来て居たら?

 

普段から疑われないように、いつもちゃんと言葉に出来て居たら?

 

 

 

最初に全部気持ちを伝えてちゃんと結婚していたら?

 

 

どこで間違えたんだ?どこで?

どこに戻って、どこからやり直したらいいんだ?

 

 

 

 

・・・そもそもおれタイムリープ出来るのかよ?

 

 

 

 

馬鹿みたいな事を本気で考えて自分を問い詰めていたら頭が窮屈になって、思考も記憶も感情も全て、くしゃくしゃに小さく丸めて放った。

 

 

 

 

 

「乱馬」

 

 

 

呼ばれて振り返ったら、ただそこに居て笑っているだけの制服姿のあかね。

フェンスの上からアスファルトに着地して隣りを歩く。

 

 

少し照れ臭そうに、こっちを向いて何かを言った。

それから楽しそうにあははと笑った。

 

 

 

全部くしゃくしゃに丸めて放った筈なのに、それだけは自分の中にぽつんと鮮明に残っていた。

 

 

 

 

目を開いたらまだ逆さの空は突き抜けるように深く青かった。

 

さっきの激しい雷雨が信じられないくらいに。

 

 

 

おれにはタイムリープなんて出来ない。

 

どこかでおれを捨てたあかねに深い怒りも持ったままだ。

 

 

 

反省?後悔?謝罪?懇願?

 

ここでおれがお前の前に出て行ったら、困惑させる?迷惑をかける?

おじさんたちは?

相手の奴は?相手の家族は?

 

 

そうしてあかねを連れ出したとして、おれはその先どうする?

 

 

 

一度大きく息を吸い込んで、ふーっと長く吐き出した。

 

 

強く噛み続けて味の無くなったガムを紙に包んで近くのごみ箱に捨てる。

 

それからポケットの中の飲みかけの眠剤も全部捨てた。

 

 

もういい。今までの事も、これから先の事も、全部どうでもいい。

 

 

なんて・・・そんな訳にはいかないか。

 

 

 

でもとりあえず、いいんだ。

嫌われようと、蔑まれようと、もうどうでもいいんだ。

 

 

 

もう本当に全部どうでもいいんだ。

 

 

 

 

ただもう一度、お前と話がしたい。

 

 

 

 

たったひとつだけはっきりと浮かんだ願望は、真っ直ぐで揺るぎがなかった。

 

そうして立ち上がった時目の前に停車していたバスは天道道場の方面に向かうバスで。

 

 

 

おれは出発寸前だったそのバスに手を挙げて乗り込んだ。

 

 

 

 

 

終わり。