すみか・prologue


 

 

ふと見ればあかねは茶の間でテレビをつけっぱなしにして、エプロン姿のままちゃぶ台に突っ伏して寝ていた。

 

 

ちゃぶ台の上には、綺麗に伏せられている二人分の未使用の食器。

 

きっと慣れない事を懸命にして気疲れしてしまったんだろう。

 

 

どうりで玄関先で「ただいま」と言ったのに、返事がない訳だ。

 

 

足音をさせずにそっと近寄って、その寝顔を覗き込んでみる。

 

そうしてまじまじと眺めてしまう。

 

 

さらりと頬に散る艶やかな髪。

綺麗に整列する長い睫毛。

 

まだあどけなさのある柔らかそうなほっぺた。

 

腕に隠されて見えない唇から、静かに漏れている寝息。

 

 

あかねの色んな顔は、これまで何度も見ているのに。

 

 

 

 

どれも見飽きることがなくて困る。

 

 

 

他の家族たちの目や気配を気にすることもなく、こんな風にあかねをじっと眺める事が出来るなんて。

 

 

 

本当におれたち今。

二人きりなんだな。

 

 

急に湧いてきた実感は喜びと驚きと少しの戸惑いを含んで、思わず大きな声を出しそうになるのを堪える。

 

二人きりの夜はとても静かだった。

 

 

 

 

「嘘だろ?」

 

 

たった今、おじさんから聞いた言葉が信じられずに真顔になる。

 

 

「いいや、乱馬くん。嘘ではないよ。何ならあかね本人に確かめてくれてもいい」

 

 

真剣な目でおれを見るおじさんからは、誤魔化す空気は微塵も感じられなかった。

 

それでもまだ、たった今聞いた言葉を信じられない。

 

 

 

まさか。

 

だってあのあかねだぞ。

 

あのクソ真面目なあかねが、まだ高校2年生なのにおれと二人きりで暮らすことを承諾したって?

 

 

 

いくらおじさんが真剣でも、にわかには信じがたい事だ。

 

 

 

「乱馬、貴様あかねくんがお前なんぞと一緒に暮らしても良いと言ってくれておるのに、まさか断る気か!?」

 

「ら、乱馬。あなたまさか、あかねちゃんがここまで心を決めたのに、逃げるつもりなの?男らしくないわ」

 

 

おろおろとし始めたおふくろが刀の鞘に手をかけた所でおれは慌てる。

 

 

「ま、待て!そうじゃなくてあかね本人から直接話を聞いてからだなっ……!」

 

「据え膳食わぬは男の恥ぞ!」

 

「そういう風にやらしく話を持ってくんじゃねえよっ!」

 

 

ぼかりと親父の石頭に拳骨を食らわすと、真顔のままのおじさんが言う。

 

 

「まあこちらとしては、そういう事があってくれた方が嬉しいんだけれどね、乱馬くん」

 

「お、おじさんまでっ!」

 

「乱馬、これで本当の男になれるのね」

 

 

感動したように呟くおふくろの言葉に至っては、突っ込むことすら憚られた。

 

 

これじゃ訳も分からないまま、一方的に親たちの願望を押し付けられるだけだ。

 

 

 

「とにかく、あかねと一度話をしてから考えさせてくれ!」

 

 

三人に詰め寄られていたおれは、逃げるように部屋から出た。

 

その足でそのまま、あかねの部屋に向かう。

 

 

 

 

 

「くおぅら!!あかねっ!!」

 

 

あかねの部屋を勢いよく開けると、タイミングが悪い事に思い切り着替え中で。

 

驚くあかねはブラを着けただけの綺麗な上半身が剥き出しで、そのままおれは固まった。

 

 

「ご、ごめん!!」

 

 

どはちーん!

 

豪快な擬音と共に左頬に激痛が走る。

 

 

 

「何であんたはいつもノックしないのよっ!ばかっ!」

 

 

慌てて後ろを向いてあかねに身支度の間を与える。

 

 

「わ、わざとじゃねえ!急ぎの用だ!」

 

「急ぎとノックは関係ないの!ちゃんとしてよ、もうっ」

 

 

 

……やっぱりさっきの話はおじさんたちの嘘じゃねえのか。

 

 

ちょっと着替え姿を見たくらいでこの強烈なビンタ。

 

こんなあかねがおれと二人きりで暮らすだなんて事、了解するわけがない。

 

さっきのおじさんたちは、狐か狸が化けていたんじゃねえか。

 

 

うん、きっとそうだ。

 

 

 

「で?何なの?急ぎの用って」

 

 

あかねは少しプリプリしながらも着替えを終えて、カーペットの上にちょこんと座っていた。

 

思わず逃げ腰になっていたおれだが、あかねがちゃんと話をする体勢をしていたので、逃げられなくなった。

 

や、元から逃げようとしていた訳ではないのだが。

 

「や、その、あの……」

 

 

改まって正面に向き合うと、急にこれから持ち出すべき話が恥ずかしくなってくる。

 

 

「お、お前、暮らすとおおおおれと一緒にとか言ったらしいな」

 

 

もう何言ってんだか自分でもよく分からなくなって、正座した膝の上でぎゅっと拳を握る。

 

 

「ああ、その話ね」

 

 

おれとは正反対に、あかねは妙に落ち着き払っていた。

 

 

「私は一緒に暮らしても良いって言ったけど、乱馬の気持ちも確認して欲しいってお父さんたちに伝えたの」

 

 

その言葉に衝撃を受けて、顔を上げる。

 

あかねはいたって真面目におれを見つめ返していた。

 

 

「お、お前……いいのかよ……お、おれと二人きりなんだぞ?」

 

「二人きりだけど、半年間ていう期間限定だし」

 

「き、期間限定っつったって!ふ、二人きりなんだぞっ!?」

 

「お部屋もね、別々で使えるみたいだし」

 

 

 

……ん?別々?

 

 

 

「そ……そうなの?」

 

 

「そうよ。だって元々乱馬の実家でしょう。私はおじさまとおばさまのお部屋を使って良いって言って貰ったし。乱馬も自分の部屋あるんだから、そこで寝ればいいじゃない」

 

 

あっさり言われてぐうの音も出ない。

 

正直、二人で暮らすという提案が出された時点で別々の部屋に寝るなんて選択肢があることは、全く頭になかった。

 

 

「……え、あんたまさか同じ部屋で一緒に寝るなんて思ってたの?」

 

「おっ!思ってねーよっ!!」

 

 

 

完全に思ってました。

 

なんて言える訳もなく。

 

 

 

「い、いくら別々の部屋だからってな!二人暮らしなのは変わらねえだろ!お、お前よく承諾したな……」

 

 

そこであかねはおれの顔をまじまじと見つめた。

 

 

「乱馬は私と一緒に暮らすのが嫌?」

 

 

澄んだ瞳にじっと見つめられると、それだけで心拍数と顔の温度が上昇する。

 

 

「い、嫌な訳じゃねーけど……あかねはそれでいいのかよ?」

 

 

「いいと思ったから承諾したのよ。試してみるのもいいのかなって」

 

 

「た、試すって?」

 

「だって私たち。元は親同士が決めた許嫁だし。許嫁は互いに望んで決めた関係ではないでしょう」

 

「まあ、な」

 

 

 

確かにその通りではあるのだが、今更それを言うか?という気持ちもある。

 

表向きは確かに『許嫁』という言葉の括りに頼ってきた関係ではあるが、心の内にはそんな括りに入りきらない気持ちは持っている。

 

 

「二人で同居してみたらお互いの事がもっと分かるのかなって。良いことか悪いことか分からないけど」

 

 

「どういう意味だよ」

 

「だからね、試してみたら良いのかなと思ってたのよ。合えばそれで良いと思うし、合わなければ許嫁解消しても良いと思うの」

 

「は?許嫁解消?」

 

 

 

その言葉におれはピリッと苛立つ。

 

 

 

「うん。だって一緒に暮らして合わないならそうした方がお互いの為でしょう?」

 

「……」

 

 

 

よくも平気でそんな事を言えるな、とあかねに対して腹立たしくなった。

 

 

 

「けっ。試すとか試さねえとかくだらねえな」

 

「何よ。試すのが怖いわけ?」

 

 

「ばっ!ちげーよ!」

 

「あんた肝心な時に意気地無しだもんね」

 

ブチリ、とキレる音がする。

 

 

「じょっ上等だ!!この勝負受けてやらあっ!試してお前がおれにベタ惚れしやがたって、おれが嫌なら許嫁解消してやるからな!!」

 

 

呆れた様にふっと苦笑いをするあかね。

 

 

「……はいはい。大した自信ね」

 

「お前こそ途中でこの勝負投げ出すんじゃねーぞっ!!」

 

 

そのまま鼻息荒く、あかねの部屋を出る。

 

 

「この勝負受けた!!」

 

 

おじさんたちの待つ部屋の襖をがらりと開けた瞬間にそう言ったら、呆気にとられた三人が居た。

 

 

そうしておれとあかねは、将来に備えてのお試し同居という親たちの提案にまんまと乗ることになったのだ。

 

 

場所はおれの実家。

 

三人娘に破壊されて以来親父がコツコツと、というよりサボりサボりおふくろにつつかれつつ、修繕したらしい。

 

 

 

期間は五月からの半年間。

 

家賃がない分、一緒に暮らしている間の生活費、食費をバイトで稼ぐのはおれ。

 

代わりにあかねは家事全般を引き受けることになった。

 

 

 

 

 

 

『アホらしい、馬鹿馬鹿しい』

 

 

 

引っ越しの間中ブチブチと文句を垂れるおれを、手伝う家族たちもあかねもまるで見えていないかのように、スルーして淡々と作業していた。

 

 

何なんだよ、みんな。

 

 

おれは別にこんな同居好きでする訳じゃけしてねえんだからなっ。

 

という態度は終始崩さずにいた。

 

 

内心、気持ちが浮わついていることは絶対に悟られたくなかったからだ。

 

 

 

あかねと二人きりで暮らす。

正直に言えば、嫌なわけがない。

 

むしろ嬉しいに決まっている。

 

 

 

ただ同居に関して妙にあかねが落ち着き払っていたのが気になってはいた。

 

だってまだおれたち、それらしい事と言えば手を繋いだ事くらいで。

 

それ以上の事もなければ、まともなデートをした事だってほぼない。

 

一度は祝言を挙げかけたけれど、それも未遂で終わったままで。

 

 

 

身辺整理も何もこちらの都合も構わずま追いかけ回すあの三人娘が、簡単に引き下がる訳もなく。

 

 

と思い至った所ではたと気が付いた。

 

 

 

「おれとあかねが二人暮らしなんかしたら、この家またあの三人に押し掛けられて破壊されるんじゃねえか」

 

 

運び込んだ荷物を整理している時に、ふとあかねに不安を漏らす。

 

 

「それなら大丈夫よ。三人はこの家には近付けないから」

 

「へ?何で」

 

 

「おばさまが三人にしっかり言い含めたからよ。あの三人も表向きはおばさまには逆らえないでしょう」

 

 

「それだけで無事終わる話なのか」

 

 

「終わらなくて私が呼び出されたわ」

 

 

え、と驚いて棚を拭いていた手を止める。

 

 

「お前何で言わねえんだよ」

 

 

「だって呼び出されたのは私で、乱馬じゃないもの」

 

「大丈夫だったのか?色々されたりとか……」

 

「うん。三人とも納得してくれた」

 

 

「……は?嘘だろ?あの三人だぞ」

 

 

まさかという顔をしているだろうおれを、あかねはじっと見た。

 

 

「安心して。誰もあんたの事諦めてないわよ」

 

「なっ!誰がそんな心配するかっ!おれは迷惑してんだぞっ」

 

 

「そうかしら。それはよく分からないけど」

 

 

 

何で分からねえんだよ。

妙に素っ気ないあかねにも何だか苛立つ。

 

 

 

「このお家に被害を与えない所なら、乱馬の事はご自由にどうぞって伝えておいたからね」

 

「は?なんじゃそりゃっ!?」

 

「だってそう言わないと、向こうも納得しないでしょう」

 

「ご自由にって何だよっ!」

 

「だから外で乱馬の事口説きたいならご自由にって言ったの。その代わりここには来ないっていう約束でね」

 

 

「お、お前何勝手にそんな約束してんだよ!人の気も知らねえでっ」

 

「そうよ。私には分からないもの。乱馬の本心は。だから乱馬は乱馬で自分の気持ちに正直に自由にしたらいいと思う」

 

 

 

あまりに素っ気ない言葉にポカンとした。

 

 

これから二人で暮らすという男女間の甘さはそこには無くて。

 

むしろこの同居生活での失敗を理由にして、あかねはおれから離れて行こうとしているのではないかとすら思える。

 

 

 

「あかね、食器は何処にしまう?」

 

 

その時、なびきが台所から声をかけてあかねは部屋から出ていった。

 

 

 

 

ポツンと取り残されたおれは、何だか違和感を感じていたんだ。

 

 

正直、あかねのやきもちは度が過ぎて全く可愛くない。

 

話もまともに聞かず、遠慮なくこちらに暴力が向かって来るから、何度もう我慢の限界だ!と思ったか分からない。

 

 

けれどいつ頃からか。

 

あかねはあの三人娘のおれの取り合いにあまり関わらないようになっていて。

 

やきもちを妬かれないのもそれはそれで寂しく、どこかで不安にも思っていた。

 

 

おれはと言えば相も変わらず。

 

P助とは盛大に争っているし、九能、五寸釘、その他隙あらばあかねに近付こうとする男共は片っ端から、蹴散らしている。

 

 

 

この違いは一体何なんだろう。

 

そして素っ気ないくらいに何か落ち着いているあかねは、何を考えているんだろう。

 

本当に相性が合わなければ、許嫁を解消するつもりなんだろうか。

 

 

 

本音を見せてくれない不安と怒り。

 

 

 

 

ふと許嫁を解消してあかねが他の男と祝言を挙げる図が浮かんだ。

 

 

 

おれの腹の底でめらりと強い炎が灯る。

 

 

そんなこと絶対に許せねえ!

 

 

こうなったらこの半年で絶対に、あかねがおれにベタ惚れして離れらんねえようにしてやる!!

 

 

そうしておれは俄然やる気が出てきた。

二人暮らしに。

 

 

 

初日の昨日は引っ越し祝いも兼ねて、家族でこちらの家で食事をした。

寿司の出前とかすみ姉ちゃんや、おふくろのお総菜で賑やかな食卓で。

 

何だったら初日から酔い潰れたおやじとおじさんが泊まって行った。

 

 

という訳で、せっかくの初日は朝から賑やかでバタバタとしていた。

 

おれたちはもちろん学校へ。

 

一緒に出たはいいが、途中で待ち構えていたかのように三人娘の襲撃に遇い、あかねは無情にも素っ気なくおれを置いてスタスタと先に行ってしまった。

 

全ての授業を終えると、おれとあかねは普段通りに並んで学校を出る。

 

そして途中で別れた。

 

 

おれは16時から3時間近くのホームセンターでバイト。

あかねは帰って家事をしなければならない。

 

それぞれに忙しい。

 

家から10分程度のホームセンターだから、帰宅は容易いし、おれにしてみれば搬入や品出しの仕事は苦になるほどの体力を使うものではない。

 

それでも一応、人間関係に対しては気を使っていた。

 

フロア主任の小守さんに、色々教わりながら初日は無難にやり過ごした。

 

 

 

そうして少し汗を掻きながら、家の近くまで走って来ると、カレーの匂いが漂っていた。

 

あかねが数少なく普通に作れるもの。

カレーライスと味噌汁と白飯と目玉焼き。

 

このバリエーションの無さでこの半年過ごして行くのである。

 

これはこれでなかなかの難問題だが、それはこれから考えていくとして。

 

とりあえずは今日は無難にカレーにしてくれたらしい。

 

 

 

おれはほっとしながら鍵を開けようとしたら、鍵は開けっ放しで。

 

あいつ、一人きりの癖に不用心だなとちょっとムッとしながら茶の間に向かうと、そこに突っ伏して寝ているあかねの姿。

 

 

 

直ぐに起こそうかどうか迷って、やっぱり起こすことが出来なくて。

 

そうして今までは周囲の目やら気配やらで出来なかった、あかねの寝顔をまじまじと見つめるという事をしてしまった。

 

シンプルなクリーム色のエプロンをつけて、ちんまりとちゃぶ台に突っ伏して眠る姿は無防備で。

 

柔らかそうな頬に触れたくなって、思わず手を伸ばしてしまった。

 

 

「ん……乱馬ぁ?帰ったの?」

 

 

そうなる前にあかねが目覚めて、おれはビクリとする。

 

「お、お、おう!今な、今帰ったばっかりだ!」

 

 

大嘘だ。

本当は30分以上前には帰宅していた。

 

 

「……遅かったんだね」

 

 

「ばっ、バイト初日だからな!色々教わってたんだ」

 

 

眠そうな目を擦りながら、あかねが立ち上がる。

 

 

「ご飯直ぐに温め直すね。乱馬お風呂入っておいでよ」

 

「お前は風呂入ったのか?」

 

「うん、先に頂いたけど。一番風呂が良かった?」

 

「や、おれそういうの拘りねえから。バイトあるし、あかねに先に入って貰った方が効率いいだろ。これからもそうしてくれ」

 

「そう。それならそうさせて貰うね」

 

 

意外とこういう所でしっかり相手を気遣う所があかねらしい。

 

気が強いようでいて、さりげなくこちらに主導権を託してくれる。

 

 

 

「乱馬のお洗濯もの、そこに畳んであるから。バスタオルやタオルは脱衣所に置いてある」

 

「お、おお、さんきゅ」

 

 

てきぱきと言われて、何となく照れる。

 

確かにコイツは不器用ではあるのだが、家事全般が下手なわけではない。

 

むしろ料理と裁縫以外は少し雑な面はあっても及第点には達している。

 

それはやはり母親の居ない家庭に育ち、時折かすみ姉ちゃんの手伝いをしていたからなんだろう。

 

 

おれは畳まれた中から風呂上がり用の着替えを手に取る。

 

「じゃ、じゃあ風呂入ってくる」

 

「うん。あ、乱馬」

 

「ん?」

 

 

振り返ったおれに向かって、あかねが柔らかく笑った。

 

 

「おかえりなさい」

 

「た、ただいま……」

 

 

その笑顔に射ぬかれて、一気に紅潮した顔を見られないように、おれは慌てて風呂場に向かう。

 

 

狭い脱衣所に着ていた服を脱ぎ散らかして浴室に入ると、しっかりと上蓋をされているそれを剥がして、ザブンと思い切り湯船に浸かった。

 

そうして口まで湯船に沈みブクブクと息を吐き出す。

 

 

「あ、あがねのヤヅめちゃくちゃがわいいじゃねーが」

 

 

本人に聞かれたくないので、湯船の中で呟いた。

 

妙に心臓が高鳴っている。

本当に何か新婚みたいだな。

 

 

『新婚』

 

という響きだけで色々と濃厚な場面まで思い浮かべてしまって、素直に身体が反応してしまった。

 

初日からこの調子で大丈夫なのかおれ。

 

 

頭を冷やそうと風呂場の窓を開けたら、妙に明るい月が見えた。

 

遠くで犬の吠える声。

 

柔らかい風と共にほんのりとあかねの温め直すカレーの匂いが漂ってきて、おれは思わずぼんやりとした。

 

 

 

幸せってこういう瞬間のことなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

終わり。