すみか・夫婦茶碗


 

 

どこかで何かを期待していた。

 

 

幾ら別々の部屋とは言え、それ程広くもない家に二人きり。

おれたちの間に(身体の距離的な)進展があったりするのではないかと。

 

 

どこかというか正直に言えば、かなり期待していた。

 

 

例えば何かのハプニング的な物で互いの手が触れ合ったりした拍子に。

例えばたまたま出会ってしまった深夜の台所で、一気に二人の距離が近くなり。

 

 

ハプニングに限った訳ではなくともひとつ屋根の下で二人きりで暮らせば、おれにも何かしらの弾みが付いて、あかねと二人きりでしっとりとした雰囲気に。

 

 

だって毎日二人きりなんだ。

 

幾ら進展がないおれたちだって、互いに好意がなければこんな事は断固として断っている訳で。

 

 

ベタ惚れさせてやるって宣言もしたし「許嫁続行」か「許嫁解消」かの勝負な訳で。

そうなるにはこう、それなりの事もするぞという宣言でもあった訳で。

 

それでも同居を拒否しなかったという事は、おれと同じくあかねにしてもそういう事はOKだと捉えてもいいんじゃないか。きっといいだろう。いいに決まってる。

 

 

……多分。

 

 

だからこそ思考は「何かきっかけがあれば」と「焦りは禁物だ」のタイミングを計る往復をしていて。

 

 

特におれはもうすぐ17才のド健康優良男子だ。

 

ひとつ屋根の下に二人きりでいるのは、好意のある女性な訳で。

という事だけで色々と察して欲しい。

 

 

 

しかし。

しかしだ。

 

 

 

同居数日にしてその予想というか希望というか願望はほぼ崩壊した。

 

 

 

今も茶の間のTVで新人芸人のコントを見ながらあかねは笑っている。

呑気にパリパリと煎餅を齧りながら。

 

おれとあかねの間にはちゃぶ台。

たかだか円卓ひとつの距離でも南極と北極くらいの遠さを感じる。

 

 

「……そんなもん夕飯後に食ったら太るぞ」

 

「大丈夫よ。ちゃんとウエイト管理してるもん」

 

 

さらりと言ったあかねはおれのことなど気にせずに、TV画面を見つめたまま呑気にコントに笑っている。

 

 

煎餅のパリパリ音と笑い声。

このどこの隙を狙ってあかねにそういう事を仕掛けろと?

 

 

無理があり過ぎるし色気も素っ気も無さ過ぎる。

 

 

 

……ちょっとはこう、そういう雰囲気出せよっ!!

 

 

おれはあかねにじりじりとしていた。

 

 

本当はもっと新婚のような甘い雰囲気の生活を期待していたんだ。

もじもじするあかねにそっと近づくおれみたいな。

 

けれど今のあかねはどうだ?

もじもじするどころか完全に同居前と同じじゃねえか。

 

 

「……なあ」

「ん?」

 

「せっかく二人きりなんだし、TVばっか観てないでなんか話そうぜ」

 

「別にいいけど……何の話?」

 

リモコンでTVをオフにしたあかねがおれをじっと見る。

 

しんとした茶の間で見つめ合うだけで、ぎしりとなるおれ。

あかねは全くそんな事は気が付かないようで、遠慮なくおれを見つめている。

 

 

そうして耐えきれなくなって俯いてしまったのは、おれの方だった。

 

「……どうしたの?乱馬。何のお話?」

 

「や、だから、その……お試し同居の……今後の事とか色々をだな……」

 

 

俯いたまま、指で「の」の字を書いて居たら畳が削れた。

 

 

ていうかおかしくねえか?

なんでおれのがもじもじしてるんだ。

 

 

「ああ、そっか分かった。ごめんね、私鈍くて」

 

ピンと来たらしいあかねは照れ臭そうに「ちょっと待ってね」とおれに告げて自分の部屋に向かって行った。

 

 

え……?何?何かあんの?

 

 

おれはその照れ臭そうな表情を全力で拾って、急に心拍数が上がり始めた。

 

な、何だろ。何かな。

 

そうしてる間にもおれの「の」の字はいくつも畳に刻まれていた。

 

 

 

「お待たせ、乱馬」

 

 

 

とたとたと階段を下りてくるあかねにそわそわとしながら腰を上げかけたが、見た目はさっきのあかねと同じ服装をしていたのでその時点で「ん?」となる。

 

正直頭のどこかでそういう雰囲気になりそうな可愛らしい部屋着や、パジャマを着てくれるんじゃないかと期待していたからだ。

 

しかしあかねの姿は何も変わらずに、両手に持っていたものをちゃぶ台の上にどんと置いた。

 

ノートと電卓とペンとクリアファイル。

 

 

 

 

「……何だこりゃ」

 

「もちろん家計簿よ。初日からつけてるの。やっぱり生活にはどれくらいお金がかかるかとか食費の割合とかに非用品、光熱費とか、色々把握しなくちゃでしょう?」

 

「ああ……そ」

 

「乱馬、そういう話がしたかったんでしょう?ごめんね、今日のまだ付けてなかったの。言われなかったら忘れちゃうとこだった」

 

てへっと舌を出したあかねは確かに可愛かった。

 

が、さっきの照れ臭そうな顔はこれだったんかーーーーーーい!!

 

今後の話って生活費の話かよっ。

 

 

 

色気がねーーーーっ。

 

 

 

という落胆のが大きくて、おれは人知れず「ふうっ」と溜息をついた。

 

 

そんなおれの様子に全く気が付かないあかねは、家計簿を開くとお財布と開いてレシートと合わせて今日の分の出費を電卓で計算し記入していく。

 

 

一応おじさんから引っ越し祝い金として多少のお金は貰ったが、おれもあかねも基本的に自分たちで何とかやりたかったので貰った額の半分は返した。

 

 

そういう訳で最初からけして楽な家計ではない。

 

おれのバイト代も週払いにしてもらったので、とりあえずは何とかなりそうだが、それも節約した上での事だ。

 

 

 

「乱馬も外で何か買ったらちゃんとレシート持ってきてね」

 

「お、おう」

 

 

電卓を持って細かく出費の繊細を記入しているあかねを眺めていた。

 

あかねは非常に大雑把な面と几帳面さを持ち合わせていて、こういう事においては結構几帳面だ。

 

「……お前、普段雑な癖に、そういうとこ几帳面だよなぁ」

 

「何よ。大事な事でしょう」

 

「だから褒めてんだろ」

 

「乱馬の言い方は褒めてくれてるのか貶されてるのか分からないんだもの」

 

 

そこに少しの照れがある軽口だって事に、そろそろ気が付けよ。

と思うのだが、なんでも真正面から受け止めるあかねにそう言ってしまう自分も悪いのだ。

 

 

とは自覚していてもそれは直せる気がしない。

 

 

「まあでも、そういうとこでちゃんとしてるってのは、ほんとに悪い事じゃねえしな」

 

「そう?……ありがと」

 

そこでようやく今日のあかねの柔らかい笑顔の何度目かが見れた。

 

やはりそれを見てしまうと、おれもついほっこりとしてしまう。

 

 

 

「これからは乱馬がね、一生懸命働いてくれてるお金だから。まだ倹約が下手だけど出来るだけ大切にしないとね」

 

 

 

「え……」

 

「今日も、帰りに区の図書館で倹約の本借りてきて読んでたの」

 

「……そだったのか?」

 

「うん。買うと高いし立ち読みも気が引けるから」

 

 

……なんて健気なんだろう。

 

 

素直に感動してしまって、気を抜いたら目が潤みそうになった。

 

あかねはちゃんとおれが働いた金を生活費にする事に対して、ちゃんと敬意を持ってくれているんだ。

 

自分だって学校の勉強と宿題と家事をしているのに。

 

負担が大きいのも、やることが多いのもあかねの方なのに。

 

毎日バタバタとしながら、ちょくちょくドジな失敗もしながら、それでも懸命に家事をこなしているあかねの姿は、おぼつかないヒナ鳥の様で愛らしくもあり、必死に頑張っているその姿は愛おしかった。

 

 

 

何事に対してもあかねは、無差別格闘天道流の流儀の様に綺麗に真っ直ぐなやり方をする。

 

それは時には実践では応用の利かない事もあるのだが、格闘とは力の強さだけはない、精神鍛錬も大事なのだ。

 

天道流は精神鍛錬という意味では、早乙女流より正攻法であり精錬であった。

 

 

その教えを受けて育ってきたあかねは、根本にそういう精神が根付いていて、真っ直ぐな不器用さも含めておれはそれがとても好きだった。

 

 

 

いつの間にかおれの下心はどこへやら。

 

 

 

懸命になるあかねの支えになりたいという方へ気が向いていた。

 

 

「あかね……お前分担ちょっと多くねえか?」

 

「ん?」

 

「家事って一言で言うけどよ。掃除も洗濯も洗い物も料理も片付けもゴミ捨ても買い物も全部家事だろ」

 

「うん」

 

「幾らおれが外でバイトしてるって言ってもよ。基本日曜は休みだ。けどお前には家事があるだろ」

 

「けど全部ちゃんと出来るようになりたいし」

 

「や、お前料理は苦手だけどそれ以外は普通にはこなせてるじゃねえか」

 

「でもかすみお姉ちゃんやおばさまはしっかりそういう事してるのよ」

 

「学校に行きながらではないだろ。いきなり根詰めてやったら何事も長続きなんかしねえぞ」

 

「でもやらないと困っちゃうし」

 

「だからおれにもう少し分担回してくれって事だよ」

 

 

 

あかねは複雑そうな顔をした。

 

 

 

「でも乱馬には外で働いて貰ってるし……全部家事は自分でやりたいの」

 

「ほら来た。そういうの、お前の良くねえとこだぞ」

 

「な、何よ。何で?」

 

「パンパンまで両手いっぱい抱えて頑張るのが、相手の為になるって思ってるとこだよ。それで潰れちまったらどっちの為にもならねえし」

 

「……」

 

「荷物は適当に分け合うべきだ。互いに無理ない程度に。いい加減は良い加減て言うだろ」

 

「乱馬……心配してくれてるの?」

 

 

そう訊いた時のあかねの目が柔らかくてドキッとする。

 

 

 

「と、とにかくだな。自分の部屋はもちろんだけど、便所掃除と風呂掃除とゴミ出しくらいはおれがやるから。あと布団干しもおれがやる。それから日用品の買い出しな。ホームセンターで安く売ってるからおれが買ってくる」

 

「……乱馬」

 

あかねはおれの申し出に感激した様子で、頬を紅潮させながらおれをじっと見つめた。

そうしてちゃぶ台の上に置いていた手に、急に柔らかくて小さなあかねの手が重なる。

 

 

途端にぎしりと緊張する身体。

 

 

あかねはそれに気が付いているのか居ないのか、うっとりとした目でおれを見つめた。

 

 

「優しいね……ありがとう」

 

 

それはあかねが頑張ってくれてるからだ。

と言いたかったけれどそれは言葉には出来ず。

 

 

ただ心拍数の上がる中で、急に忘れかけていた本来の勝負の事を思い出す。

 

 

そうだ。

ここであかねの手を更に握って、一気に距離を縮めてやるぜっ!!

 

 

と思ってぎしぎしと油の抜けきった軋む機械のような空いている方の手をなんとかちゃぶ台まで移動して、あかねの手の上にさらに重ねようとしたその時だった。

 

 

 

「あか……」

「あ!しまった!急須にお茶淹れっぱなしだったんだ!」

 

 

それに気が付いたあかねが慌てて、おれから手を放し台所の方へ消えてしまった。

 

 

おかげでおれの空いているほうの手は、自分の手に重なるという何とも間抜けな事態になり。

 

その日の夜も何事もなく(誠に遺憾ながら)平和に過ぎて行くのだった。

 

 

 

 

二人で同居を始めて、最初に迎えた日曜日。

おれとあかねは二人で買い物に出る事にした。

 

引っ越ししてから改めて知ったのだが、あれだけ大所帯から色々分けて貰って来ても、いざ所帯を別にすると色々物入りである事が多い。

 

生活となると細かい調理用具、消耗する日用品は必須だ。

食品だって生鮮な物もあれば調味料や乾物など色々種類があるわけで。

 

ただ食料品に関しては、あかねの料理の腕を考える限り、当面のおかずは商店街やスーパーの総菜に頼った方が無難で安全だ。

 

本人は色々手を出したがるのだが、それは互いの健康と無事の為にも何とか阻止していた。

 

 

「今日のおかず何が食べたい?」

 

「んー、この間のハムカツ!」

 

「ああ、あのお肉屋さんの?」

 

「そそ。あれ美味かった」

 

 

数日前にあかねが学校帰りに立ち寄ったというそのお肉屋さんのハムカツは、肉厚でサクサクで本当に美味かったんだ。

 

 

「安いしね」

 

「幾らなんだ?」

 

「75円」

 

「まじかよ……じゃあ3個食っていいか」

 

あはははとあかねが声を出して笑う。

 

「そこね、ハムカツだけじゃないから。他のも見て選んだらいいわ」

 

揚げ物ばかりでは良くないからと諭されて、スーパーよりも安いらしい八百屋に来た。

 

 

 

 

「おっ!綺麗なお嬢さん毎度っ!!今日は学校お休みかい?」

 

ダミ声の八百屋のおっさんは、あかねを見るなりデレっとしながら声を掛けた。

 

「こんにちは。今日は日曜日ですから」

 

「ああ、そっか。そだったなあ」

 

デヘヘと笑うおっさんは完全にあかねに虜のようだ。

何だかちょっとイラっとする。

 

 

「乱馬、そこの後ろにカゴあるから取って」

 

「ん?ああ」

 

振り返るとそこに買い物カゴがあったので、それをひとつとってあかねに手渡す。

 

「え!?そこの兄ちゃんはもしかしてお嬢さんの彼氏かい?」

 

「え……!!」

 

 

おれとあかねは同時に固まった。

 

彼氏……ではないけどある意味彼氏以上というか未満というか。

あかねは何て言うんだろうと気になってチラリと見る。

 

あかねの横顔は答えに迷っているようだった。

 

 

「しかし一緒に野菜買いに来るなんて……まさか同棲中!?」

 

「ちっ!違います!!あのっ!私の兄です」

 

 

 

……兄貴だとおおおおおお?

 

おれはあかねの咄嗟の大嘘の答えに沸々と怒りが湧く。

 

 

 

「ああ!なるほど!兄妹か。仲良いね!こんな可愛い妹だと心配だな兄ちゃんも」

 

がははと笑うデリカシーの欠片もなさそうなおっさんをジトリと睨む。

 

「はははは、全然。こいつ色気の欠片もないんで」

 

 

二の腕に思いっきり重たいパンチを入れられる。

 

 

「もうっ!お兄ちゃん!口が悪いんだからっ」

 

「仲の良い兄妹だね!よし今日も可愛い妹さんに免じておまけしちゃおうっ」

 

えへ、と照れ笑いするあかねを睨むが全くこちらを見ようとしない。

 

「いつも、ありがとうございます」

 

 

 

 

八百屋を出て直ぐに斜め向かいにある肉屋に行くと、店に入るなり調理帽をかぶった細身で筋肉質な若い男があかねを見て、嬉しそうにニコニコと頭を下げる。

 

 

「あかねちゃん、いらっしゃい」

「こんにちは」

 

 

『あかねちゃん』だと?

まずそこに引っ掛かり、ギロリとその男を睨む。

 

 

「ええと……その人はまさか彼……」

「兄です」

 

 

彼氏と訊かれる前に被せ気味であかねは即答した。

 

 

「ああ、あかねちゃんのお兄さんか。いつもお世話になってます」

 

 

何ほっとした顔してんだ肉屋。

 

しかもあかねもあかねだ。

たかだか買い物くるだけで何お世話してんだコラ。おい、この尻軽。

 

 

 

「……こちらこそ。全然、可愛くねえ妹がいつもお世話になってます」

 

 

今度はその瞬間にあかねからローキックをかまされたが、ショーケースを挟んでいる為に肉屋の兄ちゃんは全く気が付いていない様だった。

 

 

「え?可愛くない?まさか。あかねちゃんもうすっかりこの商店街のアイドルっすよお兄さん」

 

「アイドルぅ?こいつがぁ?」

 

 

人並み以上の力でパンチやローキックかましてくるこの色気のない女がアイドル?

という目で思いっきりあかねを見たら、むっとした顔でおれを睨んだ。

 

 

「なによっ!その文句言いたそうな顔は」

 

「……別にぃ」

 

「や、ほんとなんですってお兄さん。最近この商店街界隈で評判なんですよ。制服着た可愛い子が買い物来るって」

 

「ほーお」

 

「特に笑顔がね、可愛いから男勢がついおまけしちゃうっていう話で。あ、おれもそうなんですけどね」

 

 

 

照れて帽子を掻く肉屋の兄ちゃん。

 

 

訊いてねえよ!!

そして何周りに無駄に愛想振り撒いてんだコイツは。

 

しかもおれの事はちゃんと説明もせずに、ただの兄貴扱いかよ。

そうして肉屋を出る頃には、おれの機嫌はすこぶる悪くなった。

 

 

 

少し足早になるおれに、あかねは懸命に追いつこうとしながら声を掛ける。

 

 

「もう、何むっつりしてんの?メンチカツまでおまけしてもらえて良かったじゃない」

 

「何なんだよ!兄っつうのは?」

 

「だってああ言うしかないでしょ。私普段制服でお買い物来てるし。それで同棲なんて誤解されたら……」

 

「誤解じゃねーだろ。事実じゃねえか」

 

「私たちのは……同居だもん」

 

「だから同じじゃねえか」

 

「違うのっ。何か響きが違うのっ!同棲って何か……」

 

「何だよ」

 

「何か……やらしいこともしてる関係の感じがする」

 

「はあ?なんだそりゃ」

 

 

そもそもやらしい感じがしたらダメなのかよ?

 

 

おれたちは許嫁だ。

許嫁なんだからそのまま行けばいつかは子作りもする事になる訳で。

 

 

言わんとしてる事は分からないでもないが、何だかあかねの理由が釈然としない。

 

 

 

「それに乱馬だって嫌でしょう。高校生で同棲してるって思われるの」

 

 

いざ訊かれてみてふと考える。

 

 

例えばバイト先で、同級生と同棲してるとバレた場合。

周りの人たちがどう反応するかと。

 

 

……そうか。確かにそうだ。

 

それはかなり面倒くさい。

 

 

「……確かに。面倒だな」

 

「ほら!そうでしょう」

 

 

勝ち誇ったような顔をするあかねに少しむっとする。

 

 

「けど嫌とは思ってねえ。周りから根掘り葉掘り訊かれるのが面倒なだけだ」

 

「それが嫌なんじゃないの?」

 

「それは面倒だけど、お前と二人で暮らしてんのは嫌じゃねえから」

 

 

 

「……え」

 

 

 

驚いて足を止めたあかねにはっとなる。

 

 

しまった。

つい余計な事まで口を滑らせてしまった。

 

自覚した途端に、顔の温度が急激に上がるのを感じた。

 

 

慌てて振り返って何とか誤魔化そうとしたら、頬を染めて嬉しそうにおれを見上げているあかねが居た。

 

「今の……ほんと?」

 

おずおずと上目遣いでじっとおれを見ている。

その表情が可愛すぎて思考も停止して蕩けそうになった。

 

 

「……う、うん」

 

 

嫌じゃないどころか二人暮らし始めてからどこかでずっと浮ついてます。

 

可愛くねえとか色気がねえとか言いながら、実はふとした時の表情やしぐさで熱したフライパンの上のバターくらい蕩けてます。

 

あかねの待つ家に帰る時は、実はいつも全力ダッシュです。

 

 

 

……なんて事絶対言えねえな。

 

 

ただ嫌ではない事を肯定するのが精一杯だった。

 

 

「そっか……嬉しい」

 

 

 

はにかむように目を伏せて口元を緩めたあかね。

 

伏せた睫毛が長くてすっと通った鼻筋も綺麗で、さらさらの前髪が新緑を含んだ風に揺られている。

 

 

……商店街に天使降臨してますけど!?

 

 

と叫び出したい衝動を何とか堪える。

代わりに手を差し出した。

 

 

 

「ほら……行くぞ」

 

 

あかねはその手をゆっくりと握ると、嬉しそうに顔を上げる。

 

「うん、帰ろ」

 

少しぎこちなく手を繋いでいたおれたちも、しばらく歩くと自然とそれに慣れて行く。

 

 

まだ互いの同意の上でのキスも、もちろんそれ以上の事もした事もないおれたちの、互いの好意を確認し合う唯一の手段はこれで。

 

一緒に暮らしてるのにこれが精一杯な自分をどこかで情けなくも思うが、これはこれで、すごく幸せな時間なんだ。

 

 

商店街の通りを抜けて狭い路地を歩くと、新緑の木漏れ日がおれたちに降り注ぐ。

交わす言葉も見つからないけれど、それもけして嫌ではなくて。

 

 

何だか本当の夫婦みたいだな、なんて浸っている時にあかねがふと呟いた。

 

 

 

「あ……乱馬のお茶碗買うの忘れてた」

 

「ん?おれの茶碗?」

 

「だって乱馬ご飯よく食べるでしょう。お椀小さいとおかわり大変なんだもの。ちょっと大きいお茶碗買おうよ」

 

「んー、ああ。そんなら明日帰りに100均で適当なのを……」

 

と言いかけた所で、急に声を掛けられた。

 

 

 

 

「もしもしそこのお若いご夫婦さん。お茶碗なら良いものがありますよ」

 

ふと見ればどこかで見たような顔の行商だった。

たまーにムシロを広げて骨董やら何やら怪しげな物を売っているのだ。

 

 

「どうせろくなもんじゃねーんだろ……いらね」

 

冷たく言い放って、あかねの手を引いて先に行こうとすると、慌てて行商が追いかけてくる。

 

「いえいえいえいえ!!今回のはもう!!極上の一品ですよ!!まあ見て行くだけでも見て行って下さい!!」

 

「あかね、どうする?」

 

「……じゃあ見るだけ」

 

縋りつくくらいの勢いなので、とうとうこちらが折れて見るだけ見る事になった。

 

行商は嬉しそうにニヤリとする。

 

そうしてムシロの上にある胡散臭い商品の数々の中から、立派な桐の箱をおれたちに差し出した。

 

「……なんだよコレ?」

 

「開けてみて下さい」

 

 

あかねが恐々と桐箱の蓋を開けると、そこには重ねられた茶碗が二つ入っていた。

 

 

「わあ、可愛い……」

 

 

あかねが手に取ったのは上の方に重ねられていた器の内側に桜の柄が描かれていて外側を落ち着いた桃色と灰色を重ねるような色で塗られた上品そうな陶器の茶碗だった。

 

それはあかねの手のサイズには丁度良いくらいの大きさで。

 

 

「まだ入ってるぞ」

 

 

言いながらおれが下にあった茶碗を取ると、それはあかねのもっている茶碗よりも二回り程大きなもので。

 

やはり内側に青で桜の柄、外側を紺と灰色を重ねたような色違いで塗られていた。

 

 

「おお!!これを平気で触れる事が出来るとは!!あなたたちは凄い!!」

 

「え?」

 

「この夫婦茶碗は使う相手を選ぶのですよ。あなたたちは選ばれしご夫婦です!!」

 

 

おれは冷めた目で行商を見る。

 

 

「……嘘だろ?」

 

「嘘ではありません!これは曰く付きの夫婦茶碗でしてな。茶碗の方が持ち主を選ぶのです。もしも茶碗が気に入らなければ……」

 

「どうなるんだよ?」

 

 

 

「電撃がはしります」

 

 

 

「……なんだそりゃ」

 

「しかしお二人は互いに平気で持っておられるご様子!あなたたちは伝説の夫婦茶碗に選ばれしご夫婦なのです!」

 

「……どっかのRPGで聞いたような台詞だな」

 

「さあこれを是非お持ちになって下さい!!これは幸運の夫婦茶碗ですので!!」

 

 

どうしても胡散臭さがある行商に疑いは抜けきれないが、あかねはその茶碗がすっかり気に入ってしまったようで、大事そうに見入っている。

 

 

「お前……欲しいのか」

「でも……高そうだし……」

 

「今なら特別価格2000円です!」

「そこそこ高いじゃねえか。古道具なんだろ?まけろよ」

 

「1900円!」

「1000円!」

 

「1850円!」

「800円!」

 

 

ぐぬぬぬと二人で睨みあう。

 

 

「乱馬、高いからいいよ。お金勿体ないし止めよう」

 

「この際800円でいいです!!買って下さい!!」

「よし買った!!」

 

 

 

家に帰ったあかねはそれを丁寧に洗って早速今日の食卓に並べた。

そうして初めてちゃぶ台に並んだ夫婦茶碗は確かに、何かしっくりとしていて。

 

 

それを眺めていたあかねが食卓の湯気の向こうで嬉しそうに笑った。

 

 

「何だか本当の夫婦みたいだね」

 

 

これが弾丸ならおれは即死しているくらいの勢いで胸を貫かれた。

柔らかな笑顔の可愛さにくらくらとする。

 

 

「ちゃ、茶碗くらいで何だよ」

 

「でも私が気に入ったから頑張って買ってくれたんでしょう?」

 

「……まあ」

 

「ありがとう」

 

 

おれもっと働く時間増やそうかな。

バイトに俄然やる気が出て来た。

 

こんな風な事であかねがこんなに嬉しそうにしてくれるなら。

バイトも苦じゃないし、もっと喜ばせてやりたいという気持ちが湧いて来た。

 

 

 

結局、二人暮らしを始めてから一週間を過ぎようとしている今も、おれたちの目に見える距離はちっとも進んではいない。

 

それに対して不満と不甲斐なさはあるが、あかねと二人きりで過ごしているというこの毎日は、どこかで喧嘩や言い合いをしていてもじんわりと幸せで。

 

 

もしもこのまま半年が過ぎてしまったとしても、それはそれで幸せなのじゃないか。

 

 

なんて珍しく煩悩が抜けて、幸せに浸りながら眠りについた久しぶりの朝にそれは起きた。

 

 

 

 

翌朝、目が覚めたら同じ布団の中にあかねが寝ていたのだ。

衝撃過ぎて飛び起きたおれ。

 

 

その勢いに目を覚ましたのか、あかねが薄目でこちらを見ながら「おはよう」と呟いた。

 

 

「お、お、おはよ……」

 

 

咄嗟に殴られる事を覚悟していたが、そうされる気配もなく。

あかねはまた眠気に襲われたのかすやすやと寝息を立て始めてしまった。

 

 

 

何これ?

……何かの夢?

 

 

おれは硬直したまま、穏やかなあかねの寝顔をただ見つめていた。

 

 

 

 

終わり。