春よ、来い・前編


 

 

 

柔らかく深い霧は恐ろしいくらいに美しかった。

 

色鮮やかだった紅葉も、木々でさえずる野鳥も、虫も。

 

 

全てを大きく飲み込んでただ真っ白な世界へと姿を変えた。

 

 

そうして視界を奪われている中で、生と死の境目で見るこの世の色鮮やかさ。

 

 

ああ、そうか。

私はずっと幸せだったんだ。

 

 

 

 

必ず一人は自分と同じ顔が居ると言われる仏像のある三十三間堂で、右京と二人で自分と似た顔の仏像探しに夢中になっていたあかねの直ぐ近くに、いつの間にか立って居た乱馬が言った。

 

 

「あかねにそっくりなの居たぞ。あの鬼みてえな顔の仏像、お前が怒った時のにそっくりじゃねえか」

 

「なによっ!そんな事言いにわざわざ来たわけ!?」

 

 

流石に堂内では激しく乱馬にやり返すことも出来ず、きっと睨みつけるだけのあかね。

 

「乱ちゃん知ってるか?ここのお堂な、今一番会いたい人とそっくりな仏像を見つけるって言い伝えもあるらしいで」

 

「鬼みたいな仏像のあかねに、あ、会いたい訳ねーだろ」

 

 

みしりと音を立てて乱馬にパンチをするあかね。

 

 

「誰が鬼みたいな仏像だっ」

 

「お前らあんまりお堂の中で騒ぐなよー。万が一ここの仏像壊したりしたら、一生働いても足りんぞ」

 

淡々と通り過ぎたのは学年主任の水木先生だった。

 

 

「す、すみません」

 

「おれは大人しいんだけどさ。なあ」

 

「なあじゃないわよ。乱馬のせいでしょっ」

 

「お二人さん、先行くでー」

 

「あ、待ってよ右京」

 

 

慌てて右京の後を追うあかねの後を、乱馬も追う。

 

中学三年に進級した春に修学旅行は行われていた。

高校受験を控えている為の配慮であり、まだ和やかな空気が残る時期でもあった。

 

 

清水寺では恋占いの石という有名な石がある。

 

古代から残されている石と石の間を目を閉じたまま無事に渡りきると、恋愛が成就するという石だ。

 

石畳のブロックの間置かれたその石の辺りには、自分たちと同じ様な修学旅行生の女子が賑やかにたむろしていた。

 

 

「あかねちゃん、やらへんの?」

 

「うーん・・・私はいい」

 

「なんで?」

 

何も言えずに苦笑いするあかね。

 

「右京はやらないの?」

 

「うちはやるでっ。あかねちゃんしっかりナビしてやっ」

 

「わかった。任せといて」

 

あかねは最初の石の前に立った右京のすぐ隣りに立ちながら誘導する。

 

右京は元々の運動神経の良さから、割とすんなりと真っ直ぐに来た。

 

「あともう少しだけ右。うん良い感じ!あと一歩よ!」

 

「よっしゃー、もらったーっ」

 

 

右京が石まで到達するあと一歩のところまで来た時だった。

 

 

 

目の前の地面がぼこりと盛り上がり、地面を割って出て来た良牙に遮られた右京は、後ろに尻餅を付いてしまう。

 

 

 

「ここはどこだっ!?」

 

 

 

「りょ、良牙くん・・・」

 

「はっ!!あかねさん・・・!?無事に無事に京都に!?き、奇跡だ・・・がっ!!」

 

と言った瞬間に右京のアッパーカットが良牙の顎に炸裂した。

 

 

「おどれは!!あともう少しで恋愛成就やったのに邪魔しくさって!!」

 

「恋愛成就?何の話だ?」

 

「もう一辺一人で修学旅行してこんかーいっ!!」

 

 

清水寺に右京の絶叫が響いていた。

 

 

 

 

清水寺のかの有名な舞台からの景色を、あかねは一人で眺めていた。

 

近くの谷に咲く桜がちらほらと舞うその光景は幻想的でもあり、恐ろしくもあった。

 

 

「なんだよ。飛び降りる気かよ。んなバカな事しても助けてやんねーぞ」

 

後ろから声を掛けて来たのは乱馬だった。

 

さっきまで他の男子と騒いでじゃれていた筈なのに、いつの間にか一人で居る。

 

「しないわよ、ばか」

 

「こっから飛び降りたって、あかねなら死なねえだろうけどな」

 

「どういう意味?」

 

「生命力に溢れてるっていう意味デス」

 

 

それは褒め言葉なのかけなし言葉なのか。

曖昧で判断がつかない。

 

 

「右京はどこ行ったんだ?」

 

「縁結びのお守り買いに行った」

 

「へえ!右京って好きな奴居るのか」

 

「気になる?」

 

「まあ、気になると言われればなるけど。あの右京が好きになる男って、どんな奴なんだろうなって」

 

「・・・相当、鈍い奴だと思うわよ」

 

「ふーん・・・なんかあかねみてえな奴だな」

 

「どういう意味よっ」

「そういう意味だ」

 

 

ニカリと笑った乱馬を、あかねは手すりを掴んだまま睨む。

 

 

「ここから突き落とされたいの?」

 

「おれは全然平気だぜ。何なら飛び降りてやろうか」

 

「・・・やめて。他の人たちが卒倒しちゃうわ」

 

何だよとつまらなそうに手すりに両肘をかけて寄りかかる乱馬。

 

暫く二人の間に沈黙が流れた。

 

 

 

そうして躊躇いがちに沈黙を破ったのは乱馬の方だった。

 

 

「・・・お前はいらねえのか?縁結びのお守り」

 

「いらない」

 

「なーんで・・・好きな人居るじゃねえか」

 

「・・・成就を願っていい恋といけない恋があるでしょう」

 

 

音もなく散って行く桜を見つめるあかねの髪がさらさらと風に揺れている。

 

 

「おれはそんなの関係ねーけどな。好きになるのにいいもいけないもねえだろ」

 

「・・・その為に誰かを深く傷つけたとしても?」

 

「誰も傷つかない事なんてこの世界にねえだろ。どんなに気を付けて生きてたって、生きてりゃ誰か傷つける。ならおれは自分に正直に生きる方が良い」

 

「自分勝手ね」

 

「うん。そうだな」

 

 

乱馬は少しも悪びれずに頷いた。

 

 

「早乙女、天道さん、二人ともこっち向いて~」

 

そう言ったのは写真部の同級生の男子、田中だった。

 

彼は修学旅行のクラス内写真を担当していて、何度もレンズを向けられているので、二人も反射的にカメラの方に顔を向けて笑ってしまった。

 

 

「おけー。すげー良い雰囲気の撮れた、ありがとう」

 

そう言われて初めて、二人は顔を赤くした。

 

 

 

 

修学旅行後の教室。

 

後方の掲示板に貼り出された沢山の写真を皆で眺めている時に、乱馬とあかねの笑顔の2ショット写真は田中のちょっとしたいたずら心により、センセーショナルになっていた。

 

ポスカでご丁寧に周りを花丸で囲まれて『スクープ激写!!噂のカップル!!』と書かれていたのである。

 

それを見た女子たちにきゃいきゃいと囲まれてからかわれながら、あかねは顔を真っ赤にしていた。

 

「ちょ、ちょっと!!何よこれ!田中くんはっ?」

 

「逃げたぞー」

 

「ねえねえ!あかねと早乙女くんてやっぱり付き合ってるの!?」

「憧れちゃうよねえ、幼馴染でカップルとかっ」

 

 

「付き合ってないってばっ!こんなのウソよっ」

 

 

 

慌てて否定するあかねの話を皆聞かずにはやし立てる中、もう一人の張本人である乱馬が現れて皆がしんとする。

 

 

乱馬もまたその貼り出しを見て、顔を赤くした。

 

「なんだあ?これは」

 

「た、田中くんのいたずら」

 

「あいつ・・・後でぶっ飛ばす」

 

 

そうして乱馬は張り出された写真をその個所から剥がした。

 

 

「え、早乙女くん、剥がしちゃうの?」

 

「じ、事実無根だ!こんなの貼られてたら、おちおち勉強も出来ねえよっ」

 

「・・・そんな勉強好きやったか?乱ちゃん」

 

「う、うっちゃん。それは言葉のあやだ。こ、こんなもんとっとと捨ててやるっ!」

 

 

そう言った乱馬は、そのまま足早に教室を出て行こうとする。

 

 

「おい乱馬、そこにゴミ箱あるぞ~」

 

「しょ、焼却炉に捨てに行くんでい!!」

 

 

そうして乱馬はダッシュして立ち去った。

 

元の写真が消えてしまった事で、あかねに群がっていた女子たちも散り、それぞれ自分の欲しい写真を調べ始める。

 

 

 

 

写真の無くなった前にはあかねと右京だけが残されていた。

 

 

「・・・あれ、絶対欲しいから剥がしていったんやで」

 

 

そう呟いた右京の言葉の響きがあかねの深い所でチクリと痛む。

 

 

「そんな訳ないわよ。きっと乱馬も嫌だったのよ」

 

 

必死に否定するあかねの方を向いた右京は、静かな目であかねを見る。

 

「あかねちゃん・・・ほんまにそう思うか」

 

「うん、思う。だって私たちはただの幼馴染だもの」

 

 

それはけして嘘ではなかったし、そう言えばきっと右京も安心してくれる。

そう思っていたのに、右京は静かな目のままだった。

 

 

「あかねちゃんの鈍さは時々、残酷やな」

 

 

「え・・・」

 

思っても居なかった事を言われて一瞬、眩暈がした。

 

 

「自分の写ってる写真もいっぺん全部ちゃんと見てみ。周りの景色もちゃんとな」

 

その時、始業のチャイムが鳴った。

 

 

 

 

 

『前に保留にして貰ったお願い、今使わせてもらうね』

 

『乱馬に私以外の好きな女の子が出来たら、また戻ってきて』

 

 

 

あの夏の夜、天道家の門前であかねが乱馬に願ったのはそんな事だった。

 

自分はあかねにフラれたのだろうという事は乱馬にも理解出来た。

けれど『戻ってきて』という言葉がどうしても何処かで引っ掛かっている。

 

 

 

 

「小夏、乱ちゃんにお茶出したって」

「はい右京様っ」

 

小夏は作り置きのお茶のポットから湯呑茶碗にお茶を注ぐと、乱馬の居るカウンターテーブルの上にそれを置いた。

 

「乱馬様、どうぞ」

「さ、さんきゅー」

 

 

どう見ても美しい女性にしか見えない小夏が男性だと分かったのは最近の事だったが、やはりまだ男性とはなかなか理解しがたい。

 

どうやら彼は右京の事が好きらしく住み込みで働いているのだが、賃金も雀の涙程度で満足しているようだ。

 

 

「乱ちゃん、お好み焼き代+20パーもらうからな」

 

「え、何でだよ」

 

「相談料やないか」

 

「何でおれが相談するって決まってるんでいっ」

 

「相談ちゃうんか?」

 

「・・・ちゃいません」

 

 

「なら20パーな。それでちゃんと30分聞いたるわ」

 

「30分だけかよ。高っ」

 

「ええねんで。うちは相談なしでも」

 

「・・・よろしくお願いします」

 

 

「で、乱ちゃんはどうしたいん?」

 

 

 

そう言った時にこちらを見た乱馬の目は真っ直ぐで、右京の記憶に深く突き刺さってくるようだった。

 

 

 

 

右京から二人きりで話がしたいと言われたのは、10月に入ったばかりの頃だった。

呼び出された公園では、涼しい空気の中にほんのりと金木犀が香り始めていた。

 

 

 

「うち、乱ちゃんと付き合う事になってん」

 

 

あかねの顔を真っ直ぐに見る右京がそう言った時、あかねは驚く事も表情を変える事もなかった。

 

「うん。凄くお似合いだと思う」

 

「そうか?うちはずっと、あんたと乱ちゃんのがお似合いやと思ってたけどな」

 

あかねが座るベンチに並んで腰を下ろしながら、右京はさらりと言う。

 

 

「でも右京、乱馬の事好きだったでしょう」

 

「・・・あかねちゃん知ってたんか」

 

「乱馬の第二ボタンがなくなってたのは、右京にあげたからかなって思ってた」

「あん時はきっぱりフラれたんやけどな」

 

「・・・そうだったの」

 

「好きな人がおるからって。あんたの事や」

 

「・・・・・・」

 

「あかねちゃんにきっぱりフラれてから、乱ちゃん大分弱ってたで」

 

「・・・・・・」

 

「まあそのおかげでうちと乱ちゃんが付き合う事になってんけど。あかねちゃんはそれでええねんな?」

 

「うん。いい」

 

 

 

そこで右京は深々と溜息をついた。

 

「・・・あんたはほんまにアホやなぁ。んでムカつくわ」

 

「え」

 

「乱ちゃんの事好きなのに振ったんやろ」

 

「私が好きなのは・・・」

 

「東風先生てか?嘘つけ。あれはただの憧れやろ。あんたがホンマに好きなのは乱ちゃんやのに、何で振ったん?そういうとこがうちムカつくねん。東風先生の事にしたって、乱ちゃんにしたって。あんたは自分の事より周りの事を先に考えて飲み込んで。気遣って優しいつもりかもしれんけどな、お人好しも度が過ぎると優しさでもなんでもないで」

 

「右京・・・」

 

「言っとくけどな、あんたが乱ちゃん好きでもうちは譲らんで。あんたが良くても嫌でも遠慮なくうちが貰うからな」

 

きっぱりと言い切った右京の向こうに、秋の空が澄んで見えた。

 

 

 

 

 

校内で乱馬と右京が付き合い始めたという噂が流れ始めたのは、それから間もなくの事だった。

 

夏休み明けから、ずっと二人で登校していたのだ。

それを不自然に思う者もなく、その話題はすんなりと受け入れられていた。

 

代わりにあかねに向かって交際を申し込んでくる男子は後を絶えなかったが、それは良牙が全て排除してくれている。

 

良牙にしてみれば、幸福この上ない機会でもあった。

大好きなあかねと一緒に登校出来る上に騎士の様にその身を守れるのだから。

 

 

まるで自然と二人の縁が切れたように、二学期の席替えでは乱馬とあかねの席は遠く離れ離れになった。

 

おかげで互いに気まずい思いを過剰にする事もなく、偶然顔を合わせてしまうような事があっても挨拶を交わす程度で済んでいた。

 

 

今は何かしら気まずくても、いつか時間が経てば――。

 

 

乱馬とも、右京とも、元に戻れるのではないか。戻りたい。

恋とかそんなものがなくても、ずっと一緒に居られた子どもの頃の様に。

 

 

 

『お人好しも度が過ぎたら優しさでもなんでもないで』

 

 

その言葉はあかねに深く刺さったまま今も抜けずに居る。

 

 

本当だね、右京。

私は少しも優しくなんかない。

 

 

ただ臆病なだけだったんだ。

 

 

誰かを傷つける事も。

誰かを失う事も。

 

生きる事も、死ぬ事も怖くて仕方がなくて。

 

自分の願望にすらちゃんと正直に目を向けてあげられなかったんだ。

 

 

 

そうして色々な人を傷つける。

 

 

頭の上の方から泣きじゃくりながら自分を罵る右京の声が聞こえて、あかねはふっと笑みを漏らした。

 

 

アホ、アホ、うるさいなもう。

知ってるよ、そんな事。

 

心配しないで。

泣かないで。

全部自分の責任なんだから。

 

 

ねえ、お母さん。

私の為に本気で泣いてくれてる人が居るよ。

 

 

嬉しいね。

 

 

こんなにも幸せな事に、どうして今更気が付くんだろうね。

 

こんな時にね。

 

 

 

ずっとこんな風に真っ白な霧の中で、私はただ佇んでいたんだ。

 

 

 

意識が朦朧とする中で、ふと思い出したのは夕暮れ時の教室。

 

 

 

放課後の誰も居ないしんとした教室の中で、あかねは掲示板に貼られた写真を眺めている。

 

カメラを向けられた時に、たまたま集まった皆で撮った写真に写る自分。

 

自分にとってはただそれだけだった筈の幾つもの写真が、別の人物にとってはそうではなかったのだと、右京から言われてようやく気が付いた。

 

 

何も考えずに笑って写真に納まっている自分のすぐ近くには必ず、少し照れ臭そうに、時にはふざけた様子で写っている乱馬が居たからだ。

 

 

ほんの少しでも。

ほんの一瞬でも。

 

近くに居たい。

 

 

心に流れ込んで来た乱馬の願望が自分の中で溢れ出してボロボロと涙が零れた。

 

 

 

真っ白な霧は冷たく深く二人を飲み込んでいた。

 

 

 

 

終わり。