零れ桜


 

 

 

あかねが病院からリハビリも兼ねて東風の所に転院したのは、1月を過ぎた頃だった。

 

乱馬はそれを知りながら、まだあかねの顔を一度もまともに見に行っていない。

 

 

「乱ちゃん、あかねちゃんに何で会いに行かないん?」

 

 

行ってない訳ではない。

病院には毎日のように通っていた。

 

 

ただどうしても病室に入る勇気が出せずに、窓際の彼女の姿を少し離れた木に上って眺めて帰るだけで。

 

一度だけ花束を病室の前に置いたが『あかねへ』と書いただけのそれを、自分からの物と理解してくれるかどうかは分からなかった。

 

 

「……そのうち会いに行くよ」

 

「早く会ってあげえな。あんたの顔見たらきっと元気出るで」

 

 

本当にそうだろうか。

そうであって欲しい。

 

二つの感情が同時に湧き上がる。

 

 

 

 

あの時、山小屋であかねと右京が居ないと騒ぎだした女子たちの声を聞いて、乱馬は山小屋を飛び出した。

 

下山していくと深い霧に巻き込まれ、山籠りで慣れた乱馬ですらも方向感覚が狂いそうになった。

 

 

 

「あかね!!右京!!」

 

 

 

それでも必死で探し回っていた時にかすかな笛の音を聞いた。

 

それを頼りにその方向に向かった時に、右京の泣き叫ぶ声が聞こえて、何事かが起こっている事を理解した。

 

 

 

 

右京の泣き叫ぶ方向へ向かって、降りて行くと必死に斜面を掴む両手が見えた。

 

 

 

 

あかねだ。

 

 

 

 

 

「あかねっ!!」

 

 

思った瞬間にその腕を掴んで自分の立っている所まで引き上げた。

 

 

泥にまみれたあかねは、うっすらと目を開いて乱馬を見る。

 

その目が柔らかく笑んだ。

 

 

 

「おい!あかね!!大丈夫か!?」

 

 

ぎゅうっと抱き締めると冷えた身体から力が抜けて行く。

 

 

「あかね!!」

 

怯えながら必死に名前を呼ぶと、乱馬の耳元で声がした。

 

 

 

「……大好き」

 

 

 

一瞬、聞き間違えたのではないかと思った。

 

実際、聞き間違えたのかもしれない。

 

 

それを確認する余裕もなく、あかねは力を失って行った。

 

 

けして死なせはしない。

その一念でただ必死だった。

 

 

 

あかねの容態が安定したと知り、それまで気を張っていたものが一気に腰が抜けたようになった。

 

東風に支えられその日は帰宅し、面会謝絶が解除されるようになってから、以来毎日のようにあかねの病室近くまでは通っていた。

 

 

 

けれど病室は四人部屋で。

 

カーテン越しに人が居るような場所で話せるような事が、乱馬にはなかった。

 

何事もない素振りで、ただの同級生として、ただの幼馴染みとして、あかねの前に立つ自信がなかったのだ。

 

抑えて来た感情が溢れだしてしまいそうで。

 

 

 

 

 

 

 

あかねに振られてから間もなく。

 

右京に「あかねの前で恋人の振りをして欲しい」と頼んだ瞬間、乱馬は右京に盛大にボコられた。

 

 

「うちにそれ頼むなんて、エエ根性しとるな乱ちゃん」

 

更に乱馬に詰め寄ろうとした右京の代わりに、乱馬の胸ぐらを掴んだのは小夏だった。

 

本気を出した小夏は乱馬に匹敵する程の強さはある。

 

その小夏が眼光鋭く乱馬を睨み付けていた。

 

「私の大事な右京様を弄ぶような行為をするのであれば、貴方に容赦はしませんよ」

 

「分かってる……おれが頼んで居ることが失礼な事も最低な事も。それとあんたが右京と付き合ってる事も」

 

 

 

二人は途端に顔を真っ赤にする。

 

 

「え!!ら、乱ちゃん分かってたん!?な、何で!?うちらそんな風には全然っ!」

 

 

「これでいっ!!」

 

 

右京が焼いた皿の上のお好み焼きを、乱馬はペラリと見せる。

 

それはハート型の形をしてソースで『小夏LOVE』と書かれていた。

 

「無意識にお好み焼きハートマークにして互いの名前書くほどの仲なんだろ!誰が見ても分かるっつーの!」

 

 

「いややーっ!もう!!うちったらいつの間に!?」

 

「右京様……!それほど私……いやぼくの事を」

 

照れながらも感動して寄り添う二人に向かって乱馬は頭を下げる。

 

 

「頼む!だからこそ右京に頼みてえんだ。今の右京はおれと恋人の振りしたくれえで、小夏と離れる気はねえだろ?」

 

「まあ、それは確かにそうやけど……」

 

 

「しかし乱馬様、ぼくとしては幾ら振りでも良い気はしません。元は右京様はあなたが好きだったんだ」

 

「おれはあんたの彼女に手を出すような真似はしねえ。ただ今、あかねの近くに居るためにはこの方法以外考えられねえんだ」

 

「……清々しいくらいに自分勝手やな」

 

「うん」

 

「乱馬様は、そこまでフラれてもあかね様のそばに居られたいのですね」

 

 

小夏の言葉に乱馬は真面目な目をした。

 

 

「ああ……おれはあかねの近くに居てえんだ。おれがそばに居ない間に他の男に奪われるなんて……絶対に嫌だ」

 

 

あかねに振られて、一度は十分すぎるくらいのショックも衝撃も受けた。

 

 

一時期はあかねの姿を避けるほど、いじけてもいた。

 

けれど良牙にあかねの護衛を頼んで、二人がただ一緒に並んで歩いている姿を見るだけで、胸はギシギシと軋んで悔しくて張り裂けそうだった。

 

 

 

そうして改めて思い知らされたのだ。

 

 

自分の中にあかねがどれ程の大きさで存在しているのか。

 

 

嘘吐きにでもなる。

最低にでもなる。

 

 

どんな手を使ってでも、自分はあかねの隣りに居たい。

 

 

「二人とも頼む。おれは一生かけてでもあかねを振り向かせたいんだ」

 

 

 

右京はその言葉を聞いて呆れたように溜め息をつき、笑った。

 

 

「その心意気や良し!やな。まあ、うちはあかねちゃん、ホンマは乱ちゃんの事が好きやと思うねんけどな」

 

 

「え!ほ、ほんとか」

 

「本当かは知らんがな。そう思うだけや」

 

「な、なんだよ」

 

 

あからさまにがっかりした顔をする乱馬に右京は吹き出した。

 

「小夏がええて言うてくれるなら、うち協力したるわ」

 

「頼む小夏!!右京に変な真似はしたりしねえから」

 

「……それだけあかね様に一途ならば、そういう心配もないと信じましょう。ただ、もし右京様が何かされた時には、容赦なく貴方のお命頂戴致します」

 

 

「分かった。ありがとう小夏。うっちゃん」

 

 

乱馬としては珍しく、丁寧に頭を下げて店を立ち去った。

 

 

 

 

「本当に良かったんですか?右京様……幾ら過去とはいえ、以前はあなた様が好きだった男の為に」

 

「乱ちゃんの為やない。あかねちゃんの為や」

 

「……え?」

 

「なんやかんやうち、あの子には借りがあんねん。それにうちの一番の友達はあの子やからな。ちゃんと幸せになって貰いたいねん」

 

「右京様……」

 

「うちらみたいに、な」

 

にこやかに言った右京に、小夏は目を潤ませて柔らかく彼女を抱き寄せた。

 

髪にお好み焼きソースを染み込ませた甘酸っぱい匂いも愛しい。

 

「大切に致します」

 

 

そうして二人はそっと唇を重ねた。

 

 

 

 

 

 

 

右京と乱馬が付き合う事になったという噂は、直ぐに校内に広がった。

 

そういう噂の類いは回りが早い。

その上目立つ二人であるから、余計に周囲を騒がせていた。

 

 

右京があかねを呼び出し宣言してくれた事で、あかねが二人は付き合っていると理解したことも確かだ。

 

 

 

「あかねちゃん、うちが乱ちゃんの事好きだった事知っとったで」

 

乱馬はその事実にも驚いた。

 

「あいつそんなこと、おれに一回も訊いてこなかったぞ」

 

「訊けなかったって事は、ますます乱ちゃんに対して気持ちあったんやないかって思うけどな」

 

「え……」

 

「まあけど、うちらが付き合うって言ったらあっさり理解しとったわ。お似合いやって」

 

一瞬、浮き上がった気持ちは一気に地に落とされる。

 

お似合いまで言われるんじゃ、自分に分は無さそうだ。

 

 

 

それでも良い。

 

あかねに近付く事が許容されるようになるのなら。

 

 

 

そう思っていたのに。

 

 

何故かあかねとの距離も空気もギクシャクとしていた。

 

顔を合わせた時に挨拶をした後、話し掛けようとするのにあかねは早々とそこを立ち去ってしまうのだ。

 

席も離れ離れになってしまったせいで、教室に居るときは話し掛けるきっかけがほぼない。

 

右京と付き合っている振りもしなければならないから、ますますあかねと接する機会はなくなった。

 

 

下駄箱であかねが上級生に告白されているのを見掛けたのは、そんな頃だ。

 

 

「良牙のヤロー、ちゃんと見張ってろっつったのに」

 

下駄箱に隠れながら、そんな二人の姿を見る乱馬はじりじりとしていた。

 

「なかなかズサンな奴やからなぁ。あー、顔染めて嬉しそうやなぁ相手」

 

 

そうして耐えきれなくなった乱馬が、とうとう声を掛けた。

 

脈がありそうだなんて言いながら、あかねにバレないように鋭い眼光を上級生に向ける。

 

それを見た上級生はそそくさとあかねの前から退散し、三人で帰ることになった。

 

 

右京が腕を組んだのは悪乗りでもあり、二人の偽りの関係に真実味を持たせる為でもあったのだろう。

 

慣れない乱馬は躊躇もしたし、あかねの反応も気になったが、腕を組んでいる乱馬たちに特に表情も変える事はなく、普通に前を向いて歩いていた。

 

 

そうして右京と別れた後、天道道場へ向かう乱馬と、自宅へ帰るあかねは同じ道を歩く。

 

せっかくあかねと二人になれたのに、あかねは素っ気ないままで。

 

 

 

 

 

あの夏の夜の出来事が、強引だった自分があかねに嫌悪されてしまったのだろうか。

 

そう思うと胸が切り裂かれそうになったが、乱馬にとっては例え辛く苦しい思い出であっても、それは忘れられない出来事で。

 

あの日の美しいあかねの素肌やその柔らかさや、切ない喘ぎを思い出すだけで、どうしようもなく欲望を滾らせてしまう自分が居た。

 

 

ただ自分にとってはそうでも、あかねにとってはただの悪い夢の様な夜だったのではないか。

 

 

『忘れたら戻ってきて』

 

それは二度とあんな事はするなという乱馬への警告でもあり、忘れたいというあかねの嫌悪からだったのかもしれない。

 

だから乱馬は過剰なくらいに、あかねにもう興味はないというのを装っていた。

 

そうすればあかねが、自分をまた幼馴染みとして許容してくれるのではないかという気持ちから。

 

 

けれど何故だろう。

 

そうすればする程、あかねとの距離は離れていくように思えた。

 

忘れたら戻って来てと言ったあかねに、もうあかねへの想いは忘れたという振りをあからさまにしているのに。

 

以前のように柔らかいあかねの笑顔を見ることは出来なかった。

 

 

 

 

自分の血をあかねに輸血した事も、あかねにとっては負担であり嫌悪であるかもしれない。

 

 

そう思うとあかねに会うのが怖くもあった。

 

自分はこんなにも未練がましく、こんなにもしつこく、こんなにも欲にまみれてる。

 

とんでもなく格好悪い事ではあるが、それは今更だ。

 

結局どうやってみても、あかねから離れる自分なんて考えられない。

 

例え偽りの姿だとしても、あかねに会えなくなるよりはましだ。

 

 

 

 

 

乱馬があかねの病室を一人で訪れたのは、1月も半ばの頃だ。

 

もちろん表側から堂々とは行けずに、夜に窓からこっそりと入った。

 

 

 

 

 

「……乱馬」

 

ガラリと静かに窓が開き、その気配を察したあかねが上半身を起こしこちらを見る。

 

「よっ……」

 

中に入った乱馬はしばらく窓際に立って、頬を掻いていた。

 

 

「……具合はどうだ?」

 

「うん、そろそろ退院できそうなの」

 

 

普通に答えてくれた事にほっとして、乱馬は窓を閉じるとあかねの方へ向かう。

 

 

「……そっか」

 

「うん。乱馬、座ったら?」

 

そう言ったあかねは、ベッドサイドライトを点灯するとすぐ近くにある椅子を指差した。

 

 

「……や、でもよ……おれ見舞いも持ってきてなくて……」

 

「ガーベラの花束くれたの乱馬でしょう?」

 

「……あ、わかったのか」

 

「分かるわよ。私がガーベラ好きだって知ってるのは、乱馬だけだもの」

 

「……そ、そなのか」

 

 

 

ふふふ、と柔らかな声がした。

 

そんな柔らかなあかねの声を聞くのは久しぶりで、乱馬はじんわりと心が温まる。

 

 

そうして吸い寄せられるように、あかねのベッドの近くに腰を下ろした。

 

 

久しぶりに見るあかねは少し痩せてはいたが、清らかな美しさは少しも損なっていなかった。

 

こんな時なのにまじまじと見つめてしまう自分は、呆れるほどだと思う。

 

 

 

「……な、なあに?」

 

「や……あの……ちゃんと生きてると思って」

 

 

「乱馬のおかげよ。助けてくれてありがとう」

 

「……約束したからな」

 

「え」

 

「あかねの事はおれが守るって」

 

「……でも乱馬」

 

「や、あ、安心しろよ!お前はおれの大事な幼馴染みだ。振られたからってそれは変わらねえし。う、右京ともその、おれちゃんと上手く行ってるから」

 

 

「……そう。上手く行ってるんだね」

 

 

暗闇のせいだろうか。

あかねの顔が寂しく見えた。

 

 

「……何でそんな顔するんだよ」

 

「……私がバカだからよ」

 

 

乱馬は絶句する。

あかねの言っている意味が分からない。

 

ただ寂しそうなあかねの表情に胸が詰まる。

 

そうして思わずその手を握っていた。

 

 

「……乱馬」

 

「ごめん」

 

何故か謝ってしまった。

 

 

温かいあかねの手。

驚いて見開かれた大きな瞳が自分を捉えて優しく崩れた。

 

 

「今の私たち、同じ血が流れてるんだね」

 

「……嫌だったかもしれねえけど、そうするしかお前を助ける手段がなくて」

 

「嫌なわけない。嬉しいよ」

 

「あかね……」

 

 

その顔を間近で見てしまったのが良くなかった。

 

長い髪を両側で編んであどけなくも大人っぽくも見える乱馬が大好きな顔。

 

瞳は深い夜空のように群青で。

 

何かを反射して煌めくそれに吸い寄せられていた。

 

気が付けば、柔らかく甘い小さなあかねの唇に自分の唇を押し付けていて。

 

あかねの手が震えたのを感じて顔を離した。

 

そうして乱馬ははっとする。

 

あかねの目からポロポロと涙が溢れていたからだ。

 

 

「……ご、ごめん……おれ……」

 

「ううん……」

 

「最低だよな……ごめん……」

 

「ううん……」

 

「おれ……帰……」

 

 

立ち上がろうとした乱馬の手を握って引き留めたのはあかねだった。

 

 

「……あか……ね?」

 

「最低なのは私……」

 

 

そうして乱馬の掴んだ腕をゆっくりと手繰り寄せたあかねは、そっと乱馬の両頬に手を置いて唇を重ねる。

 

 

そのまま二つの影は互いを求めるように重なった。

 

 

 

 

 

終わり。