零れ桜の夜


 

 

静かな夜だった。

 

遠くで列車の滑車音が響いている。

 

 

ベッドライトを消しても外の外灯が差し込んできて、病室の中は暗くはなかった。

 

 

二人はベッドの中で並んで寝ていた。

手を握り合って。

 

 

「……覚えてるか?子どもの頃。夏の夜に蚊帳で一緒に寝てた頃」

 

 

「うん……覚えてる」

 

 

「お前、本当に影絵下手だったよな」

 

 

 

思い出した乱馬が、ふっと笑ってあかねを見る。

 

隣で寝ているあかねが、ぷくっと膨れて拗ねた。

 

 

 

「余計な事ばっかり覚えてるんだから、もう」

 

「他の事だって覚えてるぞ。お前がバッタ苦手だとか。魔法少女のバトン振り回しておじさんの大事な坪割った事とか」

 

 

「それも余計な事ばっかりじゃない。何か良い事覚えてないの?」

 

 

頬を膨らませ不服そうに口を尖らせるあかねは、幼い頃そのままの表情だ。

 

それが古い記憶を刺激して、乱馬はじんわりと和んだ。

 

 

 

良い事も覚えてるに決まっている。

 

天道家を訪れてからの自分の記憶は、急に色が付いた夢のように鮮やかだ。

 

 

隣を見れば、色んな表情でいつもあかねが居て。

 

心から笑っているあかねを見ると、いつも凄く嬉しかった。

 

 

 

「お前と結婚の約束したのだって覚えてるぞ。色々忘れちまったのはお前だろ」

 

 

 

「……忘れてなんかない。ちゃんと覚えてるよ」

 

 

はっきりとした声であかねは言った。

 

 

「……お、覚えてたのか」

 

「うん」

 

 

静かに天井を見詰めながら頷いたあかねに複雑な気持ちになる。

 

 

「……なら婚約破棄で慰謝料貰わねえとな」

 

 

あかねがふっと笑う。

 

 

「幾らくらい?」

 

「幾らとかそんな簡単に払えるレベルじゃねえよ。こんなイケメンモテ男のおれの婚約破棄したんだから、相当高えぞ」

 

「……自分でよくそんな事言えるわね」

 

「当然だろ。おれの気持ちの10年分なんだから」

 

「10年?」

 

「その頃からおれはあかねが好きだった。だから10年だ」

 

 

 

驚いて見開いた目がこちらに向いて乱馬を捉える。

 

 

「……そう……なの?」

 

「そうだよ、この鈍感」

 

 

 

呆れて毒づきながらも乱馬はその清廉な顔に見惚れていた。

 

この10年間、何度こんな風にあかねに見惚れてきただろう。

 

一度も見飽きる事もなく。

 

 

 

握り合っていた手を更にぎゅっと強く握られた。

 

そうしてあかねの見開いたままの瞳はポロポロと涙を溢し始める。

 

 

 

「な、何だよ……今更、婚約破棄したこと後悔したか?」

 

 

乱馬は狼狽えながらも冗談めかした。

 

やはり何時になっても、あかねを泣かせることには慣れようがなかった。

 

 

 

「……うん」

 

 

「え……本当に?後悔……してるの?」

 

 

「うん、してる」

 

 

 

どうしてだろう。

 

今日のあかねはやけに素直だ。

 

これまではずっと、乱馬の気持ちから目を背けていたあかねが、今日は真っ直ぐに向き合おうとしてくれている気がした。

 

 

 

乱馬は、立ち去ろうとした自分の手を引いて引き寄せた時のあかねの言葉を思い出す。

 

 

 

「最低なのは私」

 

 

 

確かにあかねはそう言った。

そうしてあかねは自ら口付けをしてきた。

 

 

 

自分は『あかねから』という喜びで全てが飛んでしまい、ただ夢中だった。

 

 

始まりはあかねでも、気が付けば前のめりになっていたのは乱馬の方で。

 

 

息が上がるほどに唇を重ねて、互いが混ざり合うようなキスを繰り返した。

 

もうどちらが自分の粘膜の感覚であるのか分からないくらいに。

吸い付き絡み合うような。

 

呼吸の合間にあかねの名を何度も呼んで、その響きにすらも酔いしれた。

 

 

 

興奮しきった乱馬が両手であかねの膨らみをまさぐり始めた時も、それに抵抗はなかった。

 

それどころか甘い喘ぎが漏れ聞こえてきて、その声と自分の手にある柔らかさに強く導かれて夢中で愛撫していた。

 

 

けれどそんな時にふと、あかねが切なそうに呟いたのだ。

 

 

「こん……なこと右京にも……したの……?」

 

 

 

そこでぴたりと乱馬の動きが止まった。

 

 

思わぬ出来事と喜びでそのまま駆け抜けてしまいそうになったが、そんな訳には行かない事を思い出す。

 

 

この甘い濃密な空気から離れがたいのは山々だが、あかねの心がそこにないのなら意味がない。

 

そう思い直した乱馬は振り切るつもりであかねから離れた。

 

 

 

行為が中断されて、あかねは途端に不安そうな顔をする。

 

 

「あ……ごめんね……こんな時に私……」

 

「いや……おれこそごめん。お前まだ怪我人なのに」

 

 

 

暫くの間、重い沈黙が続いた。

 

 

 

「……もう私に触れるの嫌になっちゃった……よね」

 

 

 

落ち込んだように自嘲したあかねに胸が傷んだ。

 

 

 

「そんな訳ねーだろ。おれは気持ちが知りてえんだ。あかねの」

 

 

 

それから自分の嘘も、姑息さも。

ずっと隠し通してはいられない。

 

 

全てを忘れて突っ走ってしまう前に言うべき事だと思い直した。

 

 

あかねの気持ち次第ではあるが。

 

 

 

あかねは妙に深刻そうな顔をしていた。

 

そうなると深く悩んでなかなか本音を言えないその性格を、乱馬は承知している。

 

 

そんな気持ちを解す言葉を探して、ふと思い出した。

 

 

 

「なあ、あかね。おれもベッドの中に入れてくれ」

 

 

「え……」

 

 

戸惑うあかねに向かってニッと笑う。

 

 

「ガキの頃並んで寝てたろ?ああしてるとさ、色んな事、正直にあかねと話せて楽しかったんだ」

 

 

深刻そうだったあかねがふと表情を緩める。

 

 

「いいよ。おいで」

 

 

柔らかな声にどきりとしながらも、乱馬は平静を装おってあかねと同じベッドの中に入り、並んで仰向けに寝る。

 

 

 

そうして二人はどちらからともなく手を握り合った。

 

 

 

それは不思議な感覚だった。

 

 

遥か昔からずっとそうして片時も離れずに寄り添っていたような。

 

ただそうしているだけで心満たされて行くような。

 

 

 

充ちる気持ちと懐かしさから、二人は幼い頃の話をしていた。

 

 

そして半分冗談のつもりだった婚約破棄の話が、意外なあかねの言葉を引き出していた。

 

 

「あかねは先生が好きだったんだろ?後悔すること何かねえだろ」

 

「……私は最低なの」

 

「何が最低なんだ?」

 

 

 

しんとした空気が室内に充満する。

 

何かに勢いをつけるように、ふっと短く呼吸を吐いたあかねはじっと乱馬を見据えた。

 

 

 

 

「私は、東風先生の事も好きだったの。でも乱馬の事も好きなの。どっちも大好きで、どっちも大事だったの」

 

 

「どっちも、か」

 

「そう。どっちも」

 

 

 

どちらの手がなのかは分からない。

 

ただ握り合う手が震えていた。

 

 

 

「右京が乱馬を好きだって気が付いた時に初めて気が付いたの。私、乱馬の事誰にも取られたくないって思ってるんだって。それなのに東風先生に片想いしてた」

 

 

「……それで最低だってことか」

 

 

「そうよ……だから乱馬の気持ちを受け止める資格なんかないって思ってた」

 

 

乱馬は声を出さずにふっと笑んだ。

 

 

「相変わらず……バカ正直だなお前は。そんなことおれにバラす必要ねえのに。両方好きで片方と上手く行かねえなら、上手く行きそうな方キープしとくくらいしろよ」

 

 

「そ、そんなこと出来るわけないじゃない」

 

「誰でもとは言わねえが、みんなそれくらいしてるんだよ。付き合ってる訳じゃねえなら尚更だ。この不器用鈍感女」

 

 

余りの言われようにむっとしたあかねがまた頬を膨らませる。

 

 

「……けどおれは、お前のそういうバカ正直な所が良いんだ」

 

 

乱馬の声は柔らかく優しい響きだった。

意外な返事にあかねは言葉をなくす。

 

もっと嫌悪されると思っていたのに。

 

 

 

と、繋いだ手を離した乱馬が半身を起こす。

 

 

「あかねの気持ちはよく分かった。おれ今日は帰るな」

 

「え……」

 

 

不安げな顔をしたあかねを見た乱馬が、嬉しそうに笑った。

 

 

「おれにもそんな顔してくれるんだな」

 

「な、何よ」

 

「帰るのは、お前が考えてるような事じゃねえよ。このまま並んで寝てたらさっき以上の事しちまいそうだからだ」

 

「……」

 

さっき以上の事と聞いたあかねが、恥ずかしそうに俯く。

 

ベッドから立ち上がった乱馬は、あかねを寝かし付けるように布団をかけ直して、優しく手を置いた。

 

そうして真っ直ぐにあかねの目を見る。

 

 

 

「あかね。おれと東風先生、幾らでも比べてくれ」

 

「……え」

 

「おれは全然構わねえ。むしろそうしてくれ。おれは先生に絶対負けねえから」

 

「……乱馬」

 

「幾らでも比べて考えてくれ。それでどっちに気持ちが傾いたか答えが出たら、ちゃんと正直に話して欲しいんだ」

 

「乱馬は……それでいいの?」

 

 

「良いに決まってんだろ。お前が最後に選ぶのは絶対におれだ」

 

 

それは自信家の乱馬らしい言葉だった。

きっぱりと言い切った乱馬はニッと笑う。

 

 

 

「それから最後にひとつ言っとくけど、おれとうっちゃん、付き合ってねえから」

 

「うん……え!?」

 

 

 

「うっちゃんに頼み込んで、演じて貰ってた。という訳で、おれ誰とも付き合ってねえから」

 

「な、何で……」

 

「お前のそばに居る為に決まってんだろ。あとちょっとは妬いてくれねえかなとも思ってた」

 

「……よく右京怒らなかったわね」

 

「怒られたっつーの。目茶苦茶ボコボコにされたよ。最低だって」

 

「……」

 

 

 

「だからお前のは最低なんてうちに入らねえんだよ」

 

 

そんな事はない。

 

乱馬を傷付けて泣かせた。

右京だって。

 

 

「おれが傷付いたなんて思うなよ。あんなことぐれえでお前の事諦める気なんかねえんだ」

 

 

まるで見透かされているかの様に言われた。

 

 

「おれは一度決めたらしつけえんだ。10年掛けてもダメなら、もう10年追加だ」

 

 

さらりと言ってニカッと笑んだ顔。

あかねは呆けたまま笑う。

 

 

けれど最後に笑みが消えた真剣な顔がそっとあかねに近付いてきた。

 

柔らかく唇を重ねられてゆっくりと離れていく。

 

その瞬間に乱馬が小さく呟いた。

 

 

 

「頼む……おれを選んでくれ……」

 

 

 

そのままこちらに顔を見せる事もなく、乱馬はまた窓から素早く出ていった。

 

音もなく消えてしまった乱馬をまるで幻のように思う。

 

 

けれど幻でない。

唇に残る確かな感触。

 

 

 

乱馬の最後のキスと呟きは震えていた。

 

 

それはそのまま自分の涙腺を刺激して止めどなく溢れてくる。

 

 

夜は何事もないように更けて行く。

 

 

 

 

終わり。