私たちが食事を終える頃には、真之介くんは部屋に戻っていた。
食器を洗い終えて、テレビを見るために温かいミルクティーを入れてソファに座る。
今日は医療ドラマを観るつもりでいたのだけれど、全然集中が出来ない。
倉見先輩はけして弱い人ではなかった。
気を抜いてかかれば私も簡単に投げ飛ばされてしまうくらいの技量と力のある人で。
確かに私は総合格闘へのブランクはあった。
けれど中学の頃は別の武道の部活で体は動かしていたし、時々友達や先生に頼まれて運動部の助っ人もしていて。
自宅に道場もあったし日々の鍛練は個人でしてはいた。
それでも総合格闘の組み手は3年ぶりだ。
倉見先輩が構えた時、その姿勢と気迫で先輩がけして弱くない人であるのは理解したけれど、勝機はあると突き進んでしまった。
そして勝利してしまった結果、倉見先輩がショックを受けうちひしがれる姿を見る事になってしまう。
茫然と立ち竦み涙を流す倉見さんの姿に、男子部員の誰かがボソリと呟く。
「マジかよ……鬼の倉見が泣いてる……」
その言葉で更に分かった。
倉見先輩が普段どんな風にこの部活に対して挑んでいるのか。
きっとこれまで真摯にこの部活に挑んできた人なんだろう。
その人の気力を私は一瞬で削いでしまったんだ。
それは喜びではなく後ろめたさだった。
ドラマに集中出来ずにぼんやりとしていたら、先生がまた同じソファーの中心にどかっと座ってきたので、私は慌ててソファーの手摺を掴み端に避ける。
「もうっ、先生テレビ興味ないんでしょう?どうしてこの位置座るんですか」
「だからここ、おれの定位置だって言っただろ」
先生は全く意に介さない様子で、自分で入れたらしいコーヒーをずずっと啜る。
「こんな時間にコーヒーですか?眠る気ないの?」
「眠りてえのは山々だが、これから授業の資料作らねえとなんだよ。教師は見た目よりハードワークなんだぞ」
確かにそうかもしれない。
私たちより早く学校に居るし、早乙女先生は担任と部活の顧問もして居るし。
「意外と頑張ってるんですね」
「うん。でも意外とは余計だ」
ひきつった顔をこちらに向けられて、私は思わず笑った。
先生は私をじっと見つめる。
「何ですか?」
「……や、別に」
プイッと顔を逸らされて、またずずっとコーヒーを一口啜った。
意味の分からぬまま、視線をテレビに戻す。
「……このお人好し」
先生がため息みたいにぼそりと呟いた。
「……何の事ですか?」
「勝って傷付いてんじゃねーよ、バカ」
「バカって何よっ」
「確かに倉見は人の何倍も努力してきたから部長になったし、うちの女子部員の中では最強だ。いや、男子部員の殆どもあいつには勝てねえだろうな。それがあっさり負けたんだ。本人は傷付くだろう。けど勝ったお前が傷付くのは道理が違うぞ」
「私より努力してきた人が負けて傷付いてるの見て喜べって言うんですか?」
「それぐらいでねえと、格闘家としては失格だな」
失格と言われて、何かがかっと燃え上がる。
「失格だなんて言われる筋合いないわっ」
「そうそう、そういう鼻息の荒さ。そういう方が格闘家らしくていいじゃねえか」
ふんっと顔を逸らすと、隣でふっと口元が緩む音がする。
「天道、格闘は好きなんだろ?なのに入部保留したのは倉見への後ろめたさからか」
「……だったら何ですか?入部は本人の自由でしょう」
「確かにな。そこは強制じゃねえ。けどお前のその馬鹿力眠らせとくのは勿体ねえ」
「誰が馬鹿力よっ。教師の癖にいちいち口悪いの何とかなりませんか?」
「殆どの女子生徒はおれのこの口の悪さが良いって言ってんだけどな」
自信満々にニヤリとする先生。
「どうせ先生の上辺に騙されてる女子だけでしょう」
「中身もだよ。大人の魅力という奴だ」
本当にどこまで自惚れ屋なんだろう。
呆れて言い返す気が起きない。
「まあとにかく。天道、明日から早起きな」
飲みかけのコーヒーを持ったまま、先生が立ち上がる。
「……え?」
先生は自分の部屋のドアの前で立ち止まってくるりと振り替える。
「お前をおれの朝稽古の相手にしてやるっつってんだ」
さらりと告げて先生が部屋に入ってゆく。
何様よ!と言い返したい所だが、相手は元全日本の学生チャンピオンだ。
そんな人を相手に朝稽古が出来るというだけで、灰のようになりかけていた闘志にほんのりと火が点る。
「じゃ、明日5時起きな」
「え、あ、は、はい」
ニカッと笑った先生はいたずらっ子のようだった。
この人も本当に格闘が好きなんだな、というのはその表情で理解する。
……って今、何時!?
しまった、さっさと宿題終わらせなくちゃ。
私はテレビを消して慌てて自分の部屋に戻った。