東風さんの自宅近くに道場があるとは聞いていたけれど、なかなか立派な所だった。
しかも便利なのは私たちが住むカフェからも近いということだ。
「大学のOB何人かで共同出資したんだよ」
胴着で出迎えてくれた東風さんがニッコリと私に笑いかけてくれる。
うちの実家の古い道場より真新しくて広い。
物珍しく見回していると、そこに胴着姿の真之介くんがいた。
「え……」
「おはよう、あかね」
「真之介くんも格闘技やるの?」
「ああ……東風さんに教わってるんだ」
「そうだったんだね」
強くなりたい、と言っていた真之介くんの言葉をふと思い出した。
「あかねの腕前、見てみたかったな」
「見ていってよ。もし良かったら手合わせ……」
「おれこれから東風さんと仕込みがあるんだ」
「そか……残念ね」
「真之介くん、少しくらい遅れたって構わないよ」
「いえ、いいです。あかね、また今度な」
「うん、また」
真之介くんと笑顔を交わしていると、不意に意地悪そうな声がした。
「朝っぱらから胴着でイチャコラかあ?まだ子豚の癖に」
きっと声の方を向くと先生が道場の壁に寄り掛かってからかうようや顔で私を見ている。
「イチャコラなんかしてませんっ!」
「そーかぁ。まあおれには関係ねーけどなっ」
なら言わなきゃ良いじゃない!
とムカッとするが先生は言いっぱなしで、タオルを道場の隅に投げ置いた。
「じゃあまず柔軟から行くぞ」
私は先生と二人で柔軟を入念にする。
そして身体の節々を解す準備体操。
それから先生を相手にうち込みをする。
「……お前、形も綺麗だしパワーはあんだけどな」
うち込み中に気になることをぼそりと言われた。
何よ。それ以外に何か問題があるって言うの?
「よし、最後に軽く組み手してみるか?」
先生は愉快そうにニカリと笑った。
私は少しでも食らい付きたくて奥歯を噛む。
「よろしくお願いします」
互いに位置に着き一礼して、組み手は始まった。
「たーっ!!」
牽制の為に繰り出した蹴りは、予想通りあっさり避けられる。
「でやっ!」
先生が方向を変えた方へ、軸足を即座に替えて回し蹴りで刺そうとするが、それは私の頭を支点に上空に逃れられた。
そうしながら敢えて私の正面近くに着地する。
まるでさも撃ってこいと言うようにニヤリと笑いながら。
かっと腹の底が熱くなり、正拳突きを繰り出すが、それも軽々と左右に避けられ、最後に出した蹴りが空振り、その動きの流れを利用するように肩をすっと押されて私は床によろよろと尻餅をついた。
「……勝負あり」
先生は余裕の笑みでニコリと笑う。
私一人だけが汗をかいて、息が上がっているのに先生は少しもそんな素振りがないし胴着にも乱れがない。
分かってはいたけれど。
余りにもかけ離れた力量にぐっと床に付いた両手を握った。
「お前確かに無差別格闘流の綺麗な型は使えてる。基本は出来てるんだ。女子にしちゃーなかなかの馬鹿力だし。大方、道場の壁くらい蹴りで穴開けるのは訳ねーだろ」
返事が出来ない。
図星だったからだ。
「けど真っ直ぐ過ぎて先が読みやすい。次に何をするつもりか全部見えてちゃまともな勝負になんねえぞ」
「……」
「倉見に感じた後ろめたさも降っとんだろ。お前だってまだまだ未熟だ」
「……それを伝えるためにここに呼んだんですか?」
「それも半分。後の半分はおれが天道を鍛えてみてえから、かな」
「……え?」
先生は座り込んでいる私の前に膝を折って座るとニカッと笑う。
「おめーの動きは、面白いからな。やっぱ同じ無差別格闘流なだけあって型の基本はおれと似てるのに、お前は清廉恪勤だなあ。流石あのおじさんの娘だ」
「どういう意味ですか?」
「うちの親父と天道のおじさんは兄弟弟子なんだよ。同じ流派だから型も基本は同じ何だが。互いの性格でオリジナリティがな、かなり出て」
「オリジナリティ?」
「そそ、正の天道、動の早乙女、静の小乃ってな。主に三派にオリジナリティが出た。まあ元が何でもありの無差別格闘流だ」
言われてみれば確かに、幼い頃に見た先生の動きと、以前少しだけ軽く組んでくれた東風先生の動きは一見まるで違うもののようだ。
それでも何処かに共通した型はあり、それを一番顕著に表しているのが天道流かもしれなかった。
「東風さんとは大学の時に散々組ませてもらって、静のオリジナリティは理解した。けど天道流についてはまだ未開発だからな。お前と朝練するにはおれの方にもメリットがあるんだ」
「せ、先生の為に朝練付き合えって言うんですか?」
先生は悪びれもせずにやっぱりニコリと笑った。
「そう、おれの為」
「何ですかそれ、自分勝手ね」
ヒヒヒと嫌な笑い方をして、けれど急に真っ直ぐな目で見据えられた。
先生は狡い顔立ちをしていると思う。
チャラそうだったり、意地悪だったりする癖に。
真っ直ぐに人を見据えるとその目には精悍さが出る。
まるで何も嘘がないみたいに。
「おれは天道に興味があるからな」
……え?
ほんの一瞬、ドキリと心臓が跳ねる。
「最初から面白れえ奴だと思ってたし」
私……今、何を言われてる?
「顔も笑ってりゃー可愛いしよー」
先生は表情を照れ臭そうに崩してから、口元を隠す。
「その癖あの倉見を一撃で倒すバカ力と、勝っといてドップリ落ち込むお人好しっぷりな」
プププと吹き出す先生に、ちょっと怒りが込み上げる。
そうして先生は口から手を外すと私をじっと見た。
「まあ……生徒だったのが残念、てな」
ぽかんとして言葉も出ない。
「組んでみて分かったけど、お前まだ格闘に未練あるだろ?部に入れとは言わねえからせっかくの力、おれと伸ばしてみねえか?」
私はただ道場に座り込んでいる。
「最後の話には微塵の下心もねえからな。おれはお子ちゃまには手は出さねえから安心しろ」
誰がお子ちゃまよ!
という声も出せないまま、私は座り込んでいる。
「……どした子豚?腹減って動けねえのか?」
そこで漸く私は自分のタオルを先生の顔に向かって投げつけた。
けれど簡単にそれを受け取った先生は、私を見て嬉しそうに笑う。
「お、いつもの調子出てきたじゃねーか」
先生が投げ返したタオルは、私の頭の上にばさりと掛かった。
「おれは毎日朝練やってっから。気が向いたら出てこい」
その言葉を最後に、道場の扉から先生が出て行く音が聞こえた。
しんとした場内で、私はまだ腰が抜けている。
……何?今の?
何?
今の話。
……私は告白された?
違う。
寸前で好きにはならなかったという話だ。
私が生徒でお子ちゃまだから。
恋愛対象にならなかったという話。
そして矛盾した感情が同時に湧いた。
何よそれ!
先生の癖に私をそんな風に一瞬でも思ったなんて変態!
お子ちゃまって何よバカにして!!
私はもう高校生何だから!
ちゃんとした女性だもん!
そして最後に。
先生が「生徒だったのがな、残念」と言った時の表情だけが浮かんだ。
何であんな切ない顔したの。
息が詰まって苦しくなるような。
まるで本気みたいに。
あんな顔見せるなんて狡い。
あんな顔見たら私。
……そこで私は考えるのを止める。
忘れよう!
忘れよう!
だって早乙女乱馬は私の先生だ。
子どもの頃はちょっと憧れてたけど、名前忘れてたくらいだし。
ほんのちょっとの憧れだし、もうおじさんよ!
よし!
と思って立ち上がったけれど、私はフラリとぐらついた。