「……ん?」
額に乗せていたタオルをそっとどかして早乙女先生が目を覚ます。
私はほっとしながらテーブルの上に氷を入れた水のグラスを置いた。
「気が付きましたか」
「……天道?」
「先生倒れてたんです。床の上で」
「ああ……なんでだっけ?」
まだ意識がぼんやりとしているのか早乙女先生は焦点の合わない目をしている。
「それは……えーと……」
私が作ったおにぎりが原因かもしれないとなかなか言い出せず、困った。
ただ食べた場面は見て居ないけれど、食べたのは確実だろう。
だって一口分齧られて居たから。
困って俯いていると、急にふっと先生の笑う声がした。
「何だよ天道……おれの事心配してくれてんのか?」
「え……そりゃ心配します」
だって私のあの爆弾の様な味のおにぎりを食べて倒れていたのだから。
心配になるのは当然だ。
そうしたら先生は何故か嬉しそうに顔を緩めた。
「可愛いとこあるじゃねーか……」
言うなり先生は私の頭をぽんぽん柔らかくと撫でた。
「……や……あの」
そうじゃなくて罪悪感からです、と言おうと思うのだけれど、先生は満面の笑みで私の頭を撫でている。
「お前の髪さらさらだなあ……柔らけえ」
けしてやらしい事をされている訳ではないけれど、髪の感触を確かめるように丁寧に先生の大きな手で頭を撫でられて私は少し動揺する。
「……ちょっと……先生……」
「ごめんな、おれ何か酔ってんのかも……」
「……そうだと思います」
あのおにぎりにはお酢だと思った大量の白ワインが入っているのだから、酔ってもおかしくはない。
先生は優しく撫でていた手を今度はうりうりとからかうように私の頭を動かしながら髪を撫で始めた。
最初は嫌じゃなかったけど流石にちょっと、バカにされている気がしてきて抵抗しようとする。
「……先生、止めて下さい」
「天道」
「はい」
「おれから離れた方がいいぞ」
「え……」
「じゃねーとキスしちまうかも」
「……」
えええええええええええええええええええええ!?
私は叫んで先生から飛びのいた。
先生はソファーに寝転がったまま、そんな私をぼんやりとした目で見ている。
「そんなあからさまに嫌がるなよ。傷つくだろ」
「傷つくって!!こっちのセリフです!」
「だから離れろってちゃんと言っただろ」
「せ、先生の癖に!!何てこと言うんですか!」
「……本当だな……おれ酔ってんだよ今」
「酔ってるからって……先生キス魔!?」
「魔じゃねーし。でも酔うと危ねえみてえだなおれ」
「先生飲み会でもいつもそんな感じなんですか?」
相当軽いのかもしれない。
そういう場で行きずりの事がいっぱいありそうだ。
「や、おれ普段酒飲まねえからさ。あんま得意じゃねーんだよ。親父が酒飲みで昔っから酔うと面倒だったから」
「じゃあ何で酔うと危ないって分かるんですか」
「……そこまで言わす?」
「え?」
「……や、なんでもねえ。忘れろ」
先生は急に俯いてパンパンと自分の両頬を平手で叩いた。
そうしてテーブルの上のグラスの水を飲み干す。
「とにかくな天道。男はどんな奴でも魔が差す時があるんだ」
さっき「魔じゃねーし」と言った癖にというツッコミはとりあえず飲み込んだ。
「あんまり無防備に男のパーソナルスぺ―スに入り込むなよ」
「でも先生倒れてたから」
「……そうだ。おれ何で倒れてたんだ。てか酔ってんだ?」
ううう……これはもう隠しきれない。
仕方ない。正直に言って謝ろう。
私は先生の言うパーソナルスペースに入り込まないように少し距離を置いて正座した。
「握り飯にワイン入れたあ!?」
先生の声は部屋中に響いて耳がきんとなる。
「だって……お酢だと思って」
「ラベルをちゃんと読めよラベルを!!」
「白かったし……今までワインなんてちゃんと見た事なかったから」
「思い出したぞ……あの握り飯……」
指先をぷるぷると震わせながら先生は言った。
「この世の物とは思えない!地獄の様な不味さだった!!」
そう言われた瞬間に身体は素直に反応していた。
床にボロボロになった先生が転がる。
「……て、天道……パーソナルスペース守れよ……」
「先生が酷い事言うからです!!大っ嫌い!!」
私はそのまま先生を放置して部屋に閉じこもった。
不味いと言われるのは確かに仕方ない出来だった。
それは認めざるを得ないけど、初めて作ったものだ。
せっかく一生懸命作ったのに。
「この世の物とは思えない!地獄の様な不味さだった!!」
先生の言葉と表情がすっかり焼き付いてしまった。
悔しい、悔しい、悔しい。
ベッドの上でぐっとカバーを握りしめて私は考えていた。
このままでは終われない。
私は昔から負けず嫌いなのだ。
悔しい事を悔しいままに終わらせるのが嫌いなのだ。
その日は悔しい事で頭がいっぱいで、先生に言われた過激な事は頭からすっかり消えていた。
翌日の放課後、私は家庭科室の前で深呼吸をしていた。
「失礼します!」
がらりとドアと開いたらその声に驚いた一人が手に持っていたボールをがしゃんと床に落とす音がした。
「……あ、ごめんなさい」
私は大きな声を出し過ぎた事を恥じながら、その人に近寄って転がったボールを拾って返す。
「あなたは……?」
少し度の強そうな眼鏡をかけたエプロン姿の女子が私を覗き込む。
「あの……料理研究部の入部希望者です。一年C組天道あかねです」
私はそう告げると深々と頭を下げた。
「なるほど。入部希望者ね」
「はい」
「じゃあ部長に説明頼みましょう。芹沢部長」
「はーい」
すっと目の前に出て来たのは綺麗な長い髪を後ろでひと纏めにした美しい女性。
「あたし芹沢コウ」
にっこりと笑うその綺麗な人はとても低い声でそう言った。
それはとても綺麗な女性……ではなく男性だった。